イン・ザ・サマー
思っていた夏とは違った。
もっと暑苦しくて強引で、無理やりわたしを叩き起こすような夏を期待していた。期待というほど楽しみにしていたわけじゃない、でもそれがわたしにとっての当たり前だったから、戸惑ったのだ。
大して暑くもないのに蒸していて息苦しい。通学路にある工場は何をやっているかいまいち分からなくて、通るたびに不安になる。物の壊れる大きな音が響くからだ。遠いときはまだ良いけれど、ちょうど通りかかったときにがしゃん、とやられた日にはたまったもんじゃない。
心に直接振動と音が響くのが怖いのだ。
心を揺さぶられるのは怖い。何度経験しても今ここで死んでしまうんじゃないかと本気で思うし、泣くのは好きじゃないのに涙が出そうになってしまう。泣くのを堪えて鼻が痛くなるのは最悪で、はやく心を安定させる機械が生まれればいいのにと思っている。学生じゃ買いづらいから、救心じゃないやつ。
気付いたらぬるっと変化していた。季節はお天気お姉さん曰く夏で、わたしも制服の長袖を捲るようになって、下ろしたウェーブヘアの良さについてあれほど熱く語っていた友人も髪をおだんごにしていた。韓国のアイドルに憧れてたみたいだけど、おだんごも可愛いよと言ってあげたら「じゃあいっか」って笑っていた。
駿に告白された。
実は知っていた。わたしのことを好きだってこと、だけど、知らないふりをしてきた。ずっと。駿は本当に仲の良い友達で、たしかに距離は近いけど、それは仲が良いからで。でもそう思っていたのはわたしだけだったらしい。
駿がいつもと違う顔をして、話があるとわたしに言った時、心臓があの嫌な感じの動きを見せていた。だからああ、これで終わっちゃうんだ、と泣きたくなったけれど、それは我慢した。駿のことを嫌いなわけじゃない。だから自分の涙が意図しない受け取られ方をしないようにぐっと堪えた。
告白には、そっか、とだけ答えて、あとは駿が答えは急がないからと走っていってしまった。たぶん駿も嫌な感じがしたんだと思う。そうに違いない。
暑い。
気付いたら夏だったし、あ、と言う間に駿には言い逃げされてしまった。ずるいと思う。あとはわたしが考えて、わたしが声をかけて、わたしが気持ちを伝えなきゃいけない。
心臓がうるさい。蝉の声も、小学生の意味のない雄叫びも聞こえるのに聞こえなくなるくらい、わたしには心臓の音が鮮やかだった。怖い。どうにかなってしまいそうな心を、暑さのせいにする。夏のせいにする。
がん、とかん高い大きな鈍い音が鳴り響いて、わたしは胸がえぐられるような感覚を覚えた。あの工場だった。いつもの、少し怖い工場。
でも今だけはわたしを現実に引き戻してくれる存在だった。嫌いな音でも数年で聴き慣れていたことに気付く。
駿の気持ちには応えられないなと思った。
わたしは恋とか、愛とか、そういうことがまだよく分からない。本で読んでも心で納得するとは限らない。世の中の人はそうなんだな、と思っていただけで、自分に当てはめて考えてみようなんて思いつきもしなかったし。
駿を振ったらもう仲良くできないかもしれない、そのことだけがちょっぴり寂しくてわたしのなかの納得の2文字をざらざらにしていく。こびりついた違和感は少なくともこれからしばらくは取れないだろう。でも、わたしが気づいていないだけで、物事にはすべてはじまりがある。夏にも、わたしと駿の関係にも。
「みさ?」
初めて会ったとき、駿は名前も知らぬ男の子だった。彼は私の名前を知っていて、上級生に絡まれていたわたしを助けてくれた。駿は口からでまかせを言っているとは思えないような滑らかさで動いていた。
「こんなとこにいた!補修サボりかよって先生キレてたよ。おれがとばっちり食らってるんだけど。来るよな?」
「う、うん」
勢いで返事をすると、さっきまでしつこかった上級生が「なんだよ」とその場を去った。深いため息が漏れて、少なからず緊張していたことに今更気付く。一筋の冷たい汗がぽた、と地面に落ちる。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう。えっと」
「駿」
「駿くん」
「いや、呼び捨てでいいよ。なんか逆に恥ずいし」
「……駿」
呟くように言うと、駿は笑顔でバッチリ、と右手でマルを作ってみせた。
それ以来わたしと駿は友達だった。わたしにとっては始まりなんてなかったけど、駿にとってはそうじゃなかったのだろう。
答えは急がないって、どのくらい時間をかけていいんだろうか。ずっとこのままにしたらいつか忘れてくれたりしないだろうか。だって、言葉があまりに重くて。言葉にするような関係じゃないのが良かったのに、わたしにはこの重さに急に耐えることは難しい。
「明日学校、やだな……」
ゆだるような暑さにやられて倒れてしまいたい。きっと返事をするまで駿といつも通り話すことは許されないだろうと思うと憂鬱だった。
結局わたしは次の日学校を休む度胸もなくて、教室の窓際にある自分の席で授業を受けた。蝉の鳴き声がいつの間にか幾重にもなってうるさい。授業はあまり頭に入らなかった。昼休みになっても、話し相手は駿以外にもいるけど誰かと話す気になれなかった。答えが決まっていれば悩まないなんて嘘だなと思った。
「みさ」
聞き覚えのありすぎる声だった。毎日聞いていた声、すぐに駿だと分かった。出会った頃のことを思い出してしまうような声色だった。
「なんで?」
「は?」
「なんでそんな、普通に声かけてくるの……」
意味わかんない、こっちはこんなに気まずい思いをしてるのにと少し苛立ちさえ感じる。
いやぁ、と駿は口ごもりながらも笑っていた。
「どんなことになってもさ、おれ、お前とはずっと仲良くしていたいんだよ。わがままかもしれないけど」
「わがまま、っていうか」
駿はいつもと変わらない笑顔を見せてくる。おかしい、そんなの絶対変だ。わたしは断るつもりなのに。
駿の目を見ればその笑顔に偽りはないことはよく分かる。だからこそ、わたしには眩しすぎて余計に混乱した。
「あのね、わたし」
「うん」
「今の……このままが、好きで」
「うん」
「だから、気持ちには応えられないの」
「そっか」
まるで知ってたよとでも言うような顔で駿は頷いた。この先わたしたちがどんなに今まで通りに見えても、それは駿の優しさのうえで成り立つものだと思うとこれ以上どうやって言葉を続けたらいいか分からなかった。これまで通りでいてねなんて、わたしの口から言えるわけがない。
これまで一緒にいた中で一番居心地の悪い沈黙が続いて、昼休みを終えるチャイムとともにわたしたちは無言で別れた。
人生の分かれ道と呼ぶにはありきたりで、でも、それでも、まだ十七年しか生きていないわたしを深い穴に落ちてしまったような閉塞感と恐怖が襲っていた。みぞおちのあたりが気持ち悪い。
わたしは自分の中の感情を認めて守った代わりに駿との今までを失ってしまったのだ、と思った。自分を守るのはきっと正しいことだ、だけど、駿と過ごした今までも紛れもなく自分であったはずで。
どうしようもなく途方に暮れる。夏の喧騒から耳を塞いで世界を一度手放して、わたしは机に突っ伏した。