やわらかい気配

「雛田って話すの遅いよね」
「……そう?」
 自覚済みのことを人から指摘される時ほど嫌なことはない。知り合ったばかりの会社の同期との飲み会は、あまり心地の良いものではなかった。
「ふわふわしてるっていうか、マイペースっていうかぁ」
 ね! と向かいに座る女子二人組が声を揃える。ふわふわもマイペースも悪口に聞こえてしまうのはおれが捻くれているからか、そうでないのか分からない。顔には出さず、そうかなぁと呟いてみる。
「あ、嫌いって意味じゃないからね!」
 分かってるよ、と微笑む。じゃあ言うな。これは言わない。曖昧だった二人の顔をきちんと見て心内でこの子たちとは今後親しくしないようにしよう、と記憶する。
 あらかじめメールの着信音と同じ音にセットしておいたタイマーが居酒屋の半個室の空間に鳴り響いた。
「あ、悪い。おれだ」
「なんかあった?」
「……ごめん、帰るわ。用事できた」
 あとは適当にごまかして適当に謝って、外に出た。少し止められたけど深入りはされなかった。
 ひとりだ。ようやく息が吸える。おれはまだ賑やかな駅の方向へ、ゆっくりと歩いた。
 ビル風が身を打つ。道路の固さを確かめるように歩いていたあいつのことを、また考えていた。
「大河ってほんと、話すの遅いよな」
 今までずっと、何度も何度も思い出したせいで忘れられなくなってしまった。
「バカにしてるだろ!」
「してないって」
「いろいろ、考えてるんだよ」
「色々って何だよ、たとえば?」
「たとえば……」
 ヒナのこととか。そう言って大河は恥ずかしそうに笑った。おれたちは親友だったし、同じ部屋に住む家族みたいなものでもあった。彼とその部屋で過ごしたのは三年間で、あの頃は不毛な話ばかり繰り広げていた。
「最近さ」
 冷やし中華をすすりながら大河が言う。
「ぼくには何にもないって気付いちゃった」
「何にもない?」
「そう。どうしよう、辛い」
「何もないってことないだろ」
「たとえば?」
「たとえば? んー、なんだ?料理がウマいとか」
 おれは本気でそう思ってたけど、大河はありえない、とでも言いたげな顔で首を振った。実際、食べていた冷やし中華は美味しかったのに。
「そういうことじゃないんだよ、もっとこう、絶対的な何かをさ……」
 確かなもの、絶対的な何か、強さとか、そういうものをあの頃は本気で追い求めていて、それが手に入らないことを二人で嘆いた。それからも何度も、確かなことなんてなにもないと二人で流行りの歌手みたいに夜中、じゃがりこを開けて吠えていた。
 何も忘れられないまま数年が経ってひとりにも慣れてしまったのに、大河のことを思い出すと少しだけ胸がつまった。たとえばこんな夜の街の明かりひとつさえきみのことを思い出す手がかりになってしまうことも、そんな思い出を手放せずに、本当は忘れたくなんかないことも。自分でわかっているから少し泣けた。
 結局おれは大河の答えになることができなかった。ずっと大河といたかったのは事実なのに、それを伝えることも引き止めることもできないままで大河は部屋を出て行った。
 あの日のことを、おれはずっと悔やんでいる。
 なにもかもを忘れられないのもそのせいだ。あの日さえなければと何度考えても、きっと避けては通れない道だったのだろうと分かってしまう。分かってしまうのはおれが大河をずっと見ていたせいだ。こればかりはどうしようもないことで、そうなるとおれたちの別れは必然で、だって、気付かないままではいられなかった。
 大河はおれにキスをしたあとで泣きながらずっと謝っていた。寝たふりをしていたおれはキスのことも、謝罪のことも知らないふりをした。おれたちには何もなかった、そういう態度で過ごしていた。
「ね、ヒナ」
「ん?」
「……あのさ」
「あ、昼ならナポリタンどう? こないだ近所でいい店あるって聞いて」
「ヒナってば」
 たぶん無意識に、真剣に話を聞こうとしなかったんだと思う。
「ぼく、ここを出ようって思ってる」
 だからそのツケが一気に来ておれは少し焦った。何で、とか行くなとか、言いたいことがたくさんあったのに、声に出た言葉が最悪だった。
「おれにキスしたから?」
 言ってすぐ、間違えたことに気付いた。大河は顔を歪ませて何も言えずにいた。そうだとも違うとも言わなかった。
「……荷物、また取りに来る」
 それだけ言って大河はおれの前から姿を消した。荷物はおれのいない時間に取りに戻っていたようで、気付けば大河の持ち物はほとんどなくなっていた。
 電車を降りる。
 家に帰る道は二通りあって、それぞれにいくつもの思い出がある。小さな寂れた歩道橋の上でふざけておじいさんに怒られたこと、工場が煩くて大声で話しながら帰ったこと。何度も通って同じ家にずっと帰っていたのに、急にぽっかり空いてしまったスペースをおれは埋めることができないままだ。
 家の中はいつも通り、静かでひんやりしていた。あの日おれが口に出していれば良かった言葉は、この先他の誰にも使うことはないだろうと思う。そのくらい、本当は、あいつのことが好きだった。
 もう二度とは交わせない口づけだったなら、ちゃんと目を開けていたかった。抱きしめたかった。大河に触れたかった。
 大河は大河であるだけでおれの全てだったことが、絶対的で確かだと言えれば良かった。
 自分で作っても美味しい冷やし中華を夜食に啜りながら、おれはありもしない永遠に想いを馳せていた。


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