言わない

 無感情に見えるひとに憧れた。
 彼はそういうひとだった。松田くんという、涼しげな眼もとをした男の子だった。中学生のわたしは、彼のことが好きだった。たぶん。
 中学生の頃の「すき」は今の好きとはなんだか違うような気がする。あの頃が子供だっただけなのかわたしが大人になって変わってしまったのか、よく分かんない、けどたまに昔の自分の感情が懐かしくて愛おしいときがあって、取り戻したくなったりもする。戻ってこないものに縋るほど、今のわたしは弱くはないけれど。ああ。強くなってしまったな。強くなったことはいいことのはずなのに、あんまり嬉しくない。嬉しいことにまみれて生きていくような幸せな未来を、夢に見て大人をめざしたはずなのに。
 はずなのに、ばっかりだ。
 松田くんはいつでもひょうひょうとしていて、周りの男子が馬鹿なことをやっていても、それをバカにしたりは絶対にしないけれど、加わることもしない。そんな人だった。いろいろな角度からものを見られるひとだった。いつも感情の揺らぎが見えなくて、ひろい、ひろい湖みたいだなと思っていた。何かを投げ込んでも、すぐに凪ぐような、大きな。
「松田ァ、お前尾崎のこと好きなんだろ!」
「どこから出たの、その話は」
 尾崎さんはクラスの男子が、よく話題に出している学年で一番かわいい女の子だった。今のわたしなら、みんなそれぞれに可愛かったよと言える気がするけれど、その頃はクラスの男子の評価がわたしのなかで絶対のものだった。
 尾崎さんは可愛かったけど、きっと、おおかたの男子は尾崎さんの胸ばっかり見てた。そういう話をしているのを、放課後の教室で聞いたことがあった。
「お前も結局尾崎だろ?」
「結局って、失礼じゃん」
「否定しないってことは好きってことだ。俺の目は誤魔化せないね」
 うるさい男子だな、と近くの席のわたしは思った。本を読みながら、読書の邪魔になる耳障りな男子の声に文句をつけた。もっとこう、息を吸う瞬間から透き通ったような、ラムネ瓶にビー玉が当たるときみたいな心地よさを持った声。
「肯定もしないよ。好きな人には、好きって言うよ。そのひとにだけね」
 彼に恋をしていたのだ、と思う。
 あのときは気付かなかった。だけど、声変わりの終わった男の子の声をガラスの響きにたとえてしまうなんて、彼を他の人たちと一括りにすることができないなんて。
 そんなの、恋と呼ばれなかったらおかしい。恋という言葉の甘い響きに負けないくらいわたしは大人になりたくて、松田くんに憧れて、そうしてずっと松田くんを見続けた。好き、とは到底口に出せなかったけれど。
「ね、大橋さん」
「……なに?」
 たぶん、たまたま目が合ったから。それか、たまたまわたしが松田くんの話を聞きたそうだったから。ずっと松田くんを見ていたわたしが作った状況だから、たまたま、なんていうのもおこがましいけれど彼にとってはたまたまだったはずだ。放課後の、下駄箱の前。
西日が差していて、距離は遠いのに影だけが重なっていた。
「俺の話、聞いてくれる?」
 やっぱり、響くなあ、松田くんの声。自分の声を混ぜて汚い色の絵の具みたいになりたくなくて、わたしは黙ったまま頷いた。
「好きなひとがいて」
 松田くんの声がそう紡いだ瞬間、それがわたしじゃないことが分かった。失恋は、唐突で一瞬で誰にも知られない、ひっそりとしたものになった。それでも――それよりも、いまのわたしは、松田くんが特別な話をわたしに打ち明けてくれたことが嬉しかった。たまたまだったとしても、そんなことはすぐ忘れた。
「でもさ、こないだ帰り道で、キスしてるとこ見ちゃった」
「うん……」
「急に覚めちゃって。彼氏の車、見えなくなるまで手振ってんの」
 わたしはずっと、勘違いしてたんだと、そのときようやく気付いた。
「……松田くんの、好きなひとって」
「家庭教師! 女子大生。馬鹿だよね、どうせ大学にも適当に通って適当に彼氏と仲良くやってるんだろって、でも」
 好きだったんだね、と、わたしは言うのを堪えたし、松田くんもその続きは口にしなかった。
「……松田くんって」
 ずっと、ほんとうの感情がないみたいだなって思ってた。素敵だなって、大人っぽいなって思ってた。憧れた。でも、ぜんぶ違ったんだね、わたしは全然、松田くんのこと分かってなかったんだね、わたし、松田くんのなにを見てたんだろう。松田くんは、松田くんはどんな気持ちでその女の人の後ろ姿を見てたんだろう、勉強を教えられながら何を思ってたんだろう、どうして、好きになっちゃったんだろう。
「なに? 大橋さん」
 松田くんの影がすこしわたしに近づいたから、わたしは一歩、ゆっくり彼から遠ざかった。
「ううん、なんでもないよ」
「聞いてくれてすっきりした。ほんとに、もう冷めたから逆に家で変なこと言わなくてよかったー! って感じ」
 そんなふうに笑わないで、とわたしは心から願って顔をそむけた。わたしも、うっかり何かを言ってしまわなくてよかった、と思った。
「……好きなひとには」
 好きって言うって、言ってたじゃん、なんて、好きと言えないわたしが言えるはずない。
「ん?」
「松田くんならすぐ、いいひとが見つかるよ」
「なに、慰めてくれてんの」
「いい男だよ、松田くんは」
 わたしは、言い逃げするみたいに、松田くんの顔を見ないようにして走って学校を出た。ちょっぴり息が切れた。
 松田くんは次の日、髪を染めてきて先生にすごく怒られていた。
 好きだったのになあ、黒髪。そう思ったけど、わたしのことは松田くんには関係ないから言わないままにした。



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