さよなら、また

羽月は茶色く染めていた髪を黒に戻して、お通夜に参列した。
学生服ではなくちゃんとした喪服に身を包んだ彼女は、最後に会った高3の夏よりもずっと大人びて見えて、少しだけ声を掛けるのに躊躇われた。
視線を感じたのか、羽月がこちらを見た。目が、ぱちりと合う。俺はどうすればいいか分からなくなってへらりと笑った。式場の中は酷く静かで、俺と羽月の座席は5メートルほど離れていたけれど、俺には羽月がふっと息を吐く音がやけに響いて聞こえた。
もしかしたら幻聴だったのかもしれないけれど。
式が終わると、外の空気が吸いたくなって外に出た。それに、通夜振る舞いが用意されるまでの少しの間だけでも他の親戚から少し離れていたい。夜の空は雨模様で、くすんだ灰色の空がどんよりと広がっている。土砂降り、とまでは行かないが大粒の雨が石畳に向かって落ちては音を立てて跳ね返っていた。
目を瞑ったまま雨の音を暫く聞いていた。遠くでは車の走る摩擦音や会社帰りのサラリーマンたちの笑い声が響いている。今日は土曜日なのに会社の人もいるのか。そりゃそうか、なんてどうでもいいことを繰り返し考えた。
どのくらいそうしていたのだろう。背後で、がらりと引き戸が開かれた音がした。俺は閉じていた眼をゆっくり開いて、軽くそちらを振り返った。
「こんなとこにいたの、郁」
「……羽月」
羽月は俺の隣に立つと、両手を頭の上で組んで大きく伸びをした。
「トイレ、って言って抜けて来ちゃった。郁は戻らないの?」
「始まってたの知らなかっただけ。すぐ戻るつもりだったし」
「そっか、なら良かった。先に帰っちゃったのかなって思ってたから」
羽月はそう言うと少し嬉しそうに笑った。
「……まあ、流石に。爺さんには世話になったから」
死んでしまった伊助爺さんは養子である俺にも随分良くしてくれた。俺を養子に取った張本人である親父が家から出て行った後も、爺さんだけは俺のことを特異な眼で見たりはしなかった。
「そうだよね、郁は可愛がられたもんね」
「羽月だってそうだろ。家に行くと爺さん、いつも羽月の話してたよ。『先週羽月がスイカを食べ過ぎて腹を壊した』とか『羽月の宿題をみてやったが全然分からん』とかさ」
「えっ嘘、いつの間に? 恥ずかしいんだけど!」
「高3くらいの時かなあ」
呟いて、そういえばと羽月をちらりと盗み見る。高校生の頃の羽月は髪の毛を染めてスカートもぎりぎりまで短くして、ピアスも開けてたっけ。――あれ、気のせいかな。羽月の耳にはピアスの穴が見当たらなかった。
「……あ、ピアス?」
俺の視線の先を辿るように羽月が自分の耳朶に触れる。
「高校以来着けないでほっといたら、塞がっちゃったみたい」
「ふうん」
ピアスの穴は放っておけば塞がるのかと知って、俺は妙な安心感を覚えた。俺を見て、羽月は笑って付け足した。
「ピアスの穴なんて、ほっとけば1カ月もしないで塞がっちゃうんだよ」
「――髪も、もう茶色じゃないんだな」
「先週まで教育実習だったからね。小学校の先生」
これは初耳で、俺はへえ、と目を見開いた。
「羽月、勉強できたんだ」
「失礼だねえ。そりゃ、昔はダメダメだったけどさ、頑張ったのよ私なりに」
冗談だよ。と俺は心の中で呟いた。羽月はいつだって頑張っている。俺が意味もなく家族に反発していた時も、親父が出て行って俺が爺さんに甘えていた間も、ずっと。
「……戻ろうか」
雨は止むどころか更に勢いを増し、バケツをひっくり返したように降り続いていた。さっきまでは地面に水のぶつかる音が耳に響いていたけれど、ここまで来るとまるで砂嵐のノイズのようだ。
「戻って、親戚に挨拶する」
「おお、えらいじゃん」
爺さんが死んでしまえば、俺を守るものは何一つない。それを俺は少しだけ恐れていた。せめて、親父がいれば。
親父はこの家の長男だった。跡継ぎ、なんて言うほど大きな家という訳でもなかったけれど、この地域では先祖代々かなりしっかりした家柄だったらしい。
今でも宴会になると決まってうちはその会場になって、俺はそういう会が開かれるときはなるべく自分の部屋から出ないようにした。
「俺はさ」
「うん?」
「羽月のイトコだよな」
「そうだよ」
今更何言ってんの、と羽月は笑った。この家には羽月と俺以外に後を継ぐ者がいない。だからこそ俺は養子にされたのだけれど、羽月ではなく俺がこの家の当主になることを疎ましく思っている親戚が少なくないことも分かっていた。
「羽月は俺のこと、どう思ってる?」
「どうって、何が?」
「……俺はこの先どうしたらいいのか、って」
自分のことも満足に出来ないで情けないなと思った。俺の将来なんて羽月に聞いても仕方がない。だけど、いっそ羽月が家を継ぐと言ってくれれば全て解決だなんて、無責任な考えが頭の中で広がっていた。
「好きにしたらいいよ」
「……」
「だけど、決めたことには責任持たなきゃ。ね。さっき、郁は何て言った?」
羽月の声は優しかった。
「さっきって、いつ」
「さっき。戻って親戚に挨拶するって言ったよ」
「……言った」
「だったら、守らなきゃ。どうして挨拶するの。挨拶をしましょうって学校で習ったから? 自分を認めてもらいたいから、それとも消えたおじさんの代わり? どうなの。郁」
答えなきゃならない立場だというのに、俺は妙に感動していた。ああ、確かに羽月は先生に向いているのかもしれない。怒鳴り散らすのでも、甘やかすのでもない。それでいて、心地よい緊張を感じさせる。
「……いい加減、自分を認めてやろうと思って」
俺は今まで紡いでこなかった言葉を声に乗せてみる。
親戚の一部が俺を認めないのを、俺は今までずっと養子だから仕方ないと思って諦めてきた。甘んじていた。自分を宥めるふりをしていつだって他人を盾にしてきた。
「俺は養子で親父もいないけど、それでも俺は爺さんの孫だし、この家の当主だし、……羽月のイトコなんだ」
「うん。そうだね」
羽月は照れくさそうに相槌を打った。
「そりゃあ、俺なんかが出来ないって言ってるやつに一家の将来なんて任せたくないよな。こんな、当たり前のことなのに」
俺はズボンの裾がびしょびしょになっているのに気付きて、軽くため息を吐いた。
羽月は引き戸を開いて、そろそろ中に戻らないと体が冷えるよ、と俺に手招きをした。
「こういう雨、バケツをひっくり返したようなっていうけど、どんぶりのほうが馴染み深いよね」
「は?」
「どんぶりに水をためて、ひっくり返すの。ちょっと小さすぎるか」
なんてね、とウインクをする羽月に俺はようやくそれが冗談だったことに気付いて、また曖昧な笑みを返した。羽月の下手な冗談は俺をちょうどいい具合にリラックスさせた。
戸をくぐると、館内には線香の匂いが充満していた。線香の香りは廊下を歩くたびに強くなって、最後には親戚の集まる明かりのついた部屋に辿りついた。
静かに、息を吸う。
「大丈夫?」
と少し不安そうに聞いてくれる羽月にありがとうと小声で返して、俺は戸を開けた。
中は思っていたよりも騒がしくて、俺が戻ってきたからと言って何か変わったという様子はなかった。そりゃそうか、と思いながら俺は自分の席を見つけて腰掛けた。
「もう来ないのかと思ったよ」
目の前に座る爺さんの妹の清子さんがからかうように俺を見た。
「……少し、考え事をしていたもので」
「考え事ねえ」
「ええ」
清子さんはたいして興味もない様子で、俺の言葉を聞きながら煮物を食べていた。美味しいですか、と尋ねてみると味なんかしないわよ、人が死んで……と睨まれた。
「俺は、爺さんのためにも食事は美味しくいただくべきだと思ってます。自分の葬式で飯がまずいまずいって言われたら、爺さんが成仏できませんよ」
そこまで言ってから、少し言い過ぎたかなと目の前の老人を見る。清子さんは、老人にしては若く見える顔で怒ったように口を尖らせた。
「一理あるわ。――全く、誰に似てそんなこと言うようになったのかしらねえ!」
爺さんですよ、とお互いに分かり切っている答えを言ってしまうのは無粋な気がして、俺は黙って煮魚を口に運んだ。
「じゃあ俺、ちょっと他のテーブルを回ってきます」
「はあ?」
「決めたんです」
机の端に揃えてある飲み物の瓶の中から烏龍茶を選んだ。蓋を栓抜きを使って開けると、軽い空気音がして中の飲み物が少し跳ねた。コップ一杯にそれを注ぐと、俺は立ち上がった。
「これからは自分で自分を管理しなきゃいけないんで」
「……そう」
いってらっしゃい、と清子さんは言った。その声はとても落ち着いていた。
そのあとは正直あまりよく覚えていない。俺の知らない親戚は結構いて、だけどその親戚は俺のことを知っていたりして、なんだか不思議な感覚だった。
今まで俺の周りは、親戚と呼べるものは爺さんと羽月と、あと少しくらいだったのだから、今日一日で親戚が四倍ほどに一気に増えたように俺には思えた。
親父の従兄だという、崇彦と名乗ったおじさんは、名乗った後で俺と握手をして、それから酷く真面目な顔で俺に尋ねた。
「それで、君はこの先どうするつもりなんだ?」
他の親戚も皆、言わないだけでこの家がどうなっていくのか気になって仕方がないようで、それまでざわついていた会場は段々と音量が小さくなっていく。
「俺は」
もう決めたんだ。二言はない。俺は羽月のほうをちらりと見てから、乾いた口を開いた。
「……俺は、この家に残ります」
ガキの頃はこんな田舎、なんて思ったこともあった。跡取りと言われても、あの頃はいまいちピンと来なかったのだ。それに、当時の俺はあまりにもこの家の中で部外者だった。
「爺さんが亡くなってからこんなこと思うなんて、ほんとに、情けないですけど。だけど、この家は間違いなく俺の実家なんです。俺はその長男なんだって、……今更かもしれないけど。でもこうするしかないんです。俺はこれ以外の未来を想像できないんです、今」
俺は言葉を切って周りを見た。部屋じゅうが酷く静かで、外の雨音の響きが聞こえるほどだった。
暫く沈黙を持て余していた。俺が何か言おうと頭の中の引き出しをひっくり返すように考えていると、背後から清子さんの声がした。
「うちの孫を、どうか、これからも宜しくお願いします」
清子さんの凛とした声は、そんなに大きくはなかったけれど誰の耳にも届くようなしっかりとしたものだった。その声を聞いた途端、何だか俺は涙が出そうになった。
「――今の俺は、これきりです」
俺はそう言ってまた席に戻った。しんとしていた部屋の中も、戸惑いながらも徐々にまた騒がしくなっていった。俺はそのあと弁当を半分ほど食べて、それからまた席を立った。廊下に出ると、どっと疲れが押し寄せてきて図らずとも溜息が漏れる。雨は、音から察するにだいぶ弱まってきているようだった。
「お疲れ様」
いつの間にそこにいたのか、羽月が俺に声をかけた。俺はうん、とだけ返してまた息を吐いた。
「ねえ」
「ん?」
「さっき、一瞬こっち見たでしょ」
「……そうだっけ?」
なんとなくとぼけてみる。羽月は別にいいけどさ、と言ってそっぽを向いた。
「でも、告別式の時もこっち見たでしょ。なんか笑ってたけど」
「ああ、うん、そうかも」
「笑うとこじゃなかったでしょ」
「そうだね。ごめん」
どうしていいか分からなかったから笑ったのだと、そう言ったら羽月は何て言うだろう。
「――私ね、昔は郁のこと苦手だった」
「え?」
つい焦ったような声で聞き返してしまう。実はね、と羽月は恥ずかしそうに笑った。
「ちょっとずるいって思ってたんだ。私が男だったら、間違いなく私はこの家を継ぐのにって。別に、家を継ぎたかったわけじゃないんだけど……なんていうか、私は女の子で、いらないと思われてたのかなって思うのが癪で、そんなこと考えてる時の自分のことも嫌いでね。だから、人のことなんかほんとは言えないの! 笑っちゃうでしょ。郁にお説教してみても、それだって全部昔の私が言われたこと」
おじいちゃんにね、と羽月は笑った。
「さっきはね、この先どうしたらいいかなんて聞いてくるから殴ってやろうかと思ったんだ」
「こわっ」
「はは。だって、何もしなくても必要とされてるくせにって思って」
俺は血のつながりのある羽月をずっと羨んでいた。なのに、羽月は俺のことをそんなふうに思っていたなんて、俺が知るはずもない。
だけど、考えてみれば極々当然の理論だった。
「みんなの前で、あんなふうに言える郁はすごいなって思ったの。私にはできないよ。だから、郁はちゃんと相応しいんだなって思った。私が女で、郁が男だからじゃなくて、郁が郁だから選ばれたんだ、皆に」
外に出よう、と俺はまた玄関口のほうに向かう。羽月も俺の後ろを少し遅れて着いてきた。扉をがらりと開けると、もう雨は殆ど止んでいるようだった。
「郁、虹!」
羽月が叫んで、指さす方を見ると綺麗に大きな虹が空に架かっていた。羽月がお願い事しなきゃ、と手を合わせ始めたから、流れ星じゃないんだから……と呆れながら俺も目を閉じた。
「ねえ、郁?」
「今度は何?」
「どんぶりをひっくり返した、ってさっき言ったけど、どっちかっていうと如雨露だったかも」
羽月がふふ、と楽しそうに笑う。
「如雨露で水やりすると、天気がいいと小さい虹が見えるの」
雨や露のように。如雨露に入っている水は、その細かい穴から出ると雨や霧みたいだと言われる。じゃあ、さっきの雨は雨とは別の、何かなのだろうか。
「やっぱ、涙かな」
「え?」
「今日の雨はきっと人の涙だ。爺さんがいなくなって泣いた人の」
「……郁は、案外ロマンチストだよね」
「ええ? そんなことないと思うけど」
――晴れた空は、涙も溶かしてくれるだろうか。
そんなことを考えてから、確かにロマンチストみたいだと俺は自分で笑った。


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