梅雨の晴れ間
昨日も、夜更かしをしたからだろうかと魁は苦笑した。ここのところ、夜更かしが続いている。昨日も寝たのは夜中の一時を回った後だったように思う。
寝室の窓を開けてこもった空気を入れ替えると、涼しい風と一緒に雨の匂いを体じゅうで感じられた。
――前のデートの日も、雨だった。
魁には大嶋真という二歳年上の彼氏がいる。真は生真面目な感じの、しかしそれでいて何処か抜けているようなサラリーマンだった。遠距離で、会えるのは多くて月に一度程度だったけれど、それでも魁はついて行こうとは思わなかった。ついて行けなかった、のほうが正しいのかもしれない。魁は舞台俳優をやっている。
デビューしたのは三年前の夏、流行りのアニメを舞台化したものへの出演だった。三年経った今もまあまあ仕事もあって、ファンクラブなんてものも存在したりする。事務所の定期的な番組にたまに出演することがある関係で、魁は東京から離れることが出来ない。
たまには晴れてくれ、とつい溜息が漏れる。
久しぶりのデートなんだから、示し合わせたみたいに雨にするのはご勘弁願いたい。
「こっちは相合傘すら出来ないんだぞコノヤロー……」
相合傘は問い詰められたら言い訳が聞かないから、と真がやめておこうと前のデートで言った。別にいいと言ったけれど、真はそのせいで魁の舞台が観られなくなったら嫌だから、と笑った。魁は真が自分の演技が好きなのを知っていたし、本心だと思ったからそれからは相合傘も、外で手を繋ぐこともしていない。
ぼうっとした頭のまま朝ご飯を軽く済ませて、昨日選んだ服を着たところで携帯が震えた。真からだった。
「もしもし」
急いでボタンを押して電話に出ると、真の声が耳に響いた。
「魁?」
「そうだよ、他に電話かける人なんていないでしょ」
「それもそうだ」
はは、と真の笑う声が聞こえる。魁の余計な皮肉にも、真は軽くおどけて返した。なんかあった、と魁が聞くと、真はうん、と言って続けた。
「待ち合わせ、渋谷駅でって言ったけど変更してもいいかな」
「いいけど……どこ」
「何処だと思う?」
「はあ?」
聞いてるのはコッチだ、と騒ぐと、真はまた笑った。笑い事か、と魁は少しイラついた。
早く会いたいのに、これじゃあ移動すら出来やしない。でも早く会いたいから、なんて言うのは何だか癪だ。恥ずかしいし、と魁は思った。
暫く沈黙が続いたかと思えば、真は嬉しそうに声を出した。
「着いたよ」
「着いたよじゃないよ。何でそんな呑気なの」
「え、ほんとにまだ分からないの?」
困ったなあと呟いてから、真は「とりあえず外に出てみてよ」と魁に言った。言ったと同時に電話が切れて、魁は眉を顰めた。
魁は財布とICカードをポケットに突っ込みワンショルダーに携帯とその他諸々を入れて背負って靴を履いた。今日は雨なんだったと傘立てから乱暴に傘を引き抜いて、玄関のドアを開けた。
鍵を閉めて、何度か確認する。
「……よし」
「魁」
背後からの低音に一瞬体が凍った。心臓が急に早く脈打つ。聞き慣れた声でも、そりゃあ突然名前を呼ばれたら驚くに決まってる。
「……」
「あ、驚いた?」
真が魁の顔を覗き込んだ。
「びっくりさせんな!! 心臓止まるかと思った!」
「あはは、それは困るな」
魁が吠えても、真は笑いながら軽く返した。反省してねえなこいつ、と魁は溜息を吐いた。心臓は漸く落ち着いてきたけれど、反論の意味も込めて魁はそっぽを向いた。
「ごめんって」
「……」
「ねえ」
「……」
「僕はさ、雨だから、魁の家に来たんだけど」
魁が固まったのが分かった。顔がにやけるのを抑えて、真はそっぽを向いて拗ねている魁の顔をもう一度覗き込んだ。魁は真と目が合うと、また横を向いて目を逸らした。耳が少しだけ赤い。
「魁くーん」
「……」
「まだ無視なの?」
鍵開けてよ、と真がわざと耳元で囁くと、魁は赤い顔で真を思いっきり睨んで、頬を抓った。
「いたい!」
真の叫びを他所に、魁はしかめ面のままでドアに近づいて鍵を開けた。
「……入らないなら閉めるから」
「魁くん、かーわいい」
「もう閉めていい?」
「待って待って」
急いで魁の家に滑り込むと、魁はすかさず鍵を閉めた。
「傘はそこ」
傘は流石に傘立て以外置くとこないよと真は思ったけれど、また怒られそうなので黙っておいた。
「ただいま」
と言ってみると、魁がおかえりと言ってくれるので真は顔が綻んだ。
いつも一緒に暮らしていない分、そんな些細な所で嬉しくなれる。久しぶりの恋人を抱きしめてみると、魁は顔を赤くしたままで特に何も言わなかった。
「……いいってことですか」
つい確認してみると、いちいち煩いなとでも言うように魁はこっちを軽く睨んだ。
「雨が止むまで」
「今止んでるけど」
「えっ! ……って、嘘かよ」
全く、これだから真はと魁はまたぶつぶつと文句を零した。途中で口を塞いだので、その言葉は言葉にならないまま宙に浮く。代わりにどちらのものともつかない吐息が漏れた。
「雨、止んでほしくないんだ?」
真の言葉に魁はまた声を詰まらせた。迷うように目が泳ぐ。
「うるさいな、真」
魁はそれだけ言って、真の腕を引いて目を閉じた。