「エドガーの……っばかああああああああ!!」



そう言って彼に凄まじいタックルをかましてしまった過去の自分を、こんなにも殴りたくなったのは、一体今日で何度目になるんだろう。今日は二月十四日、つまりバレンタインデー。そんな日に会いたいと言われて、喜ばない女の子はいない。もちろん私もその一人だった。けれど数十分前、エドガーから呼び出された私を待ち合わせ場所で待っていたのは、彼の周りに綺麗な女性が群がる光景だった。もちろん最初の数分は待っていた。ああ待っていたともさ。けれど女の人の甘ったるい声と、それに対してまんざらでもなさそうなエドガーの表情を見続けた結果、私の堪忍袋の緒は約五分程度我慢したところで切れる結果となった。無造作に床に置かれた鞄の中から、甘い匂いを漂わせるそれが、今となっては惨めに思えてきて。私は潤む視界をクッションにこすりつけた。



「なまえ、そんなに落ち込まなくても…」

「お、落ち込んでなんかいない」

「そんな悲しそうな表情で言っても説得力ないぞ」

「うっ……」



ソファーに座って黄昏れる私を、見兼ねたフィリップが慰めてくれる。けれど私の心は後悔の海に沈んだっきり、浮上する気配はまったくなかった。



「…私って、やっぱ、子供っぽいのかな……」

「ん?急にどうしたんだ」

「エドガーの周りにいた人達がさ、みーんな綺麗なお姉さんだった。やっぱり男の人からしたら、ああいう大人の女性が好みなの?」

「さあ……人によって好みは違うからな…」

「じゃあフィリップは?」



そう聞いてみると、彼は少し驚いた顔をして、けれどすぐに何かを企んでいそうな怪しい笑みを浮かべた。



「え、どうしたのフィリップ」

「俺はなまえみたいな子が好きだな」

「ああ、うん、それはありがっ…と!?え、え、なに!?」



慰めてくれているのかなーと上の空で考えていた瞬間、ギシリと、スプリングが軋む音。気がつくと私の上にフィリップが乗っていて、つまりあれだ、傍から見れば私が彼に押し倒されているように見える状態になっている。それももう近いとかそんな次元じゃなくて、フィリップの吐息が、私の頬を撫でるとか、そういうレベルで。もちろんこういったことに対して免疫のない私の心はパニック状態に陥っていた。



「ちょっ、どいてよ」

「ああ、安心してくれ。別になまえを襲う気はない」

「ならなんで…!」

「まあ待ってろって」

「うっ……」



赤くなった顔を見られたくないだとか、それこそこの体勢への羞恥心とかでおろおろする私には、仕方ないといった表情で笑うフィリップの考えがまったく分からなくて。だから、それに意識を集中させていた私には気付けなかった。部屋の扉を開けて、誰かがこちらに向かってくる足音が。



「やれやれ、やっと来たか」

「っ、フィリップ、何を」

「え、エドガー?」



ぜいぜいと肩で息をしながら、信じられないといった表情でこちらを見据えるエドガー。彼自慢の青くて綺麗な髪は少し乱れていて、どうやらここまで全力で走ってきたらしいことが分かる。



「さてと、あとはご両人で仲良くどうぞ」



そう言ってフィリップは私の上から退くと、まるで手のかかる子供を持つ母親のような、そんな笑みを浮かべて部屋から出て行った。結果、部屋に残ったのは私とエドガーの二人だけ。ちらりと視線を彼に向ければ、ふいっと反らされて、気まずいったらありゃしない。



「…なにを、してたんだ」

「は?」

「さっき、フィリップが君の上に乗っていただろう」

「ち、違っ、あれはその…」



その言葉を最後まで言えることは出来なかった。起き上がっていたはずの身体は再びソファーにダイブして、上から押さえ付けられた。もちろんエドガーに。……なにこれデジャヴュ?



「私のことが、嫌いになったか?」

「そ、そんなことないっ」

「ならどうして」

「…っエドガーだって、そうじゃん。さっきまで綺麗な女の人と楽しそうにしてたし、私なんてどうでもいいのかと……」



そう言って、今度は私が視線を外す。そうだ、元はといえばエドガーのせいなんだ。私が譲歩する必要なんてないし、たまにはこのフェミニストにぎゃふんと言わせるべきじゃないか。決心した私は、心に溜まったモヤモヤを吐き出そうと口を開く。



「私、待ってたのに…エドガーはこっちに来ないし。それに女の人達、みんな私の方を見てくすくす笑ってたんだよ?あんな状況に何分も耐えられる訳ないじゃない」

「…それは、だな」

「エドガーって、大人の女性が好みでしょ?なら向こうに行ってくればいいじゃん!こんな、子供っぽい私なんか置いて!」



大人と子供の境界線というのは、一体どこに存在するのだろうか。曖昧で、不確かで、けれど確実にあるそれは、今だってこうして私と彼の間に壁を作る。どうすれば、どうすればエドガーに釣り合うような女の子になれるのかとか、綺麗な大人の女性に笑われてどうしようもないほど悲しかったとか。きっとこんなことをぐるぐる考えてしまう時点で、私はこの線を越えてエドガーの隣り並ぶことは出来ないのだろうと思うと、余計に悲しくなった。



「…まったくあなたは……」

「へ?」

「女性達に囲まれて、あなたの元にすぐ向かえなかったことは許してほしい。けれど、私の自慢の彼女について話しているときに口角が上がってしまったのは不可抗力じゃないか」

「っちょ、ちょっと待ってよ。それってどういう…」



あの時、女の人達が私を見て発した言葉は僅かに聞こえていた。そしてそのどれもが、私がエドガーには似合わないと遠回しに笑うものだった。そんな風に周りが私を馬鹿にする中で、彼は私を庇ってくれていた?私のことを自慢の彼女だと、言ってくれていた?



「だから機嫌を直してくれ、マイレディ」

「…っ……そんなこと言われたら…何もできないじゃん…」

「ふふっ、なまえ…顔真っ赤だぞ」



くすくすと笑う彼はいつもと同じ姿で、私は小さく安堵の溜め息を零した。



「…あ、そうそう!バレンタイン渡したかったんだ」

「バレンタイン……ああ、日本では女性が男性にチョコレートをプレゼントすると聞いたことがあるな」

「日本のお菓子メーカーの陰謀なんだろうけどね。ちょっと待ってて」



床に置いた鞄からごそごそ取り出したのは、ピンクの袋に包まれたチョコレート。それも生チョコとかトリュフじゃなくて、彼のために特別作ったオランジェットという代物だ。薄切りのオレンジにチョコを付けた、酸味と甘味がほどよく絡む大人の味が特徴的なそれは、少しでも大人な彼に近付きたいという私の思いが篭っていたりする。



「オランジェットか」

「味は保障できないけどね」

「なに、なまえの作ったものはなんでも美味しいに決まっている」

「まったく……」



照れながら袋をエドガーに渡せば、すぐに封を開けて中身を取り出してくれたので、私は食べてくれるのを待つ。けれど彼はオランジェットを手に持ってしばらくそれを見つめた後、まるで何かを企んでいるかのような表情でこちらを見てきた。

「そうだ、なまえが食べさせてくれ」

「…はい!?」

「嫌か?」

「い、いい嫌じゃないけど…」



渋々とオランジェットを手に取って彼の口に近付ける。そして、ゆっくりとエドガーの唇が開かれて……ぱくりと、橙色のそれが食べられた。



「どう?」

「おいしいな」

「ほ、ほんとに?」

「…なら、試してみるか?」

「え、なんっ」



そしてその言葉は、温かい熱に飲み込まれる。



「っ、な」

「ほら、甘いだろ?」

「…………」

「ん?どうしたなまえ」

「ば……」

「ば?」

「ばかああああああ!!!」



結局、こういったことに関してはエドガーも十分子供っぽいのだと、翌日フィリップに温かい眼差しで言われることを私はまだ知らない。


プシュケーの嘲笑







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