水を流す音が響き、扉が開く。
 おぼつかない足取りで廊下に出てきた少女を見て、薬屋大助は寄りかかっていた壁から背を離した。
「手洗ったか?」
 念のため確認。当たり前でしょうと言いたげに少し顔を歪め、少女が頷く。
「はやく、部屋まで連れていきなさい」
「……はいはい」
 普段と同じ偉そうな言葉だが、いつもの覇気はない。仕方なく少女を背負うと、首元に熱い息がかかる。
 ……熱いのは、息だけではない。肩に当たっている額も、首に回された腕も、持ち上げている太腿も、パジャマ越しに背中に密着している胸もお腹も。風呂上がりのように火照った身体で、それでも寒いのか頬を背中に擦り付けてくる。
 少女の部屋まで戻ると、彼女がトイレに行っているうちにとお手伝いさんがやっておいてくれたのだろう。汗で湿っていた布団が、新しいものに取り替えられていた。
 背中から下ろし、その布団に横にしてやる。だるそうに胸を上下させている少女の額に手のひらを当て、朝とあまり変わらない熱さに息を吐く。
 鬼の霍乱とでも言うべきだろうか。
 一之黒亜梨子を監視し始め一年以上経つが、彼女が高熱で倒れたところを見たのはこれが初めてだ。
 ――バカは風邪ひかないという迷信があるが、本当にただの迷信だったんだな。
 口に出したら殴られそうなことを考えていると、亜梨子が大助の袖を引いた。
「もうすぐ、三時限目始まっちゃうわよ。いかなくていいの?」
 何を考えていたか悟られたのだろうか、と一瞬身構えたが、杞憂だったようだ。
 亜梨子の的外れな心配に、「そんなことより」と大助は亜梨子の瞼を閉じさせた。
「学校は、どうせお前の監視のために行ってるんだ。そのお前が熱出して家で寝込んでるんなら、行く必要はないんだよ」
「でも……」
「いいから、寝ろ」
「……きっと、恵那が寂しがってるわよ」
 嘆息する。
「もう、学校にも休むって連絡入れてある。病人は黙って寝てろ」
 布団の中でモゴモゴと何か呟いていたが、諦めたように瞼を閉じた。多分、せっかくご主人様が心配してあげてるのに……とか、そんなところだろう。
 水に濡らしたタオルを額に乗せてやると、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
 眠りについたことを確認し、大助はようやく一息ついたと布団の横に座り込む。

 ――優しい魔法使いと名乗る虫憑きが死亡してから、早一週間。
 あの事件以来、亜梨子は花城摩理の調査に行っていない。
 花城摩理に乗っ取られた際の後遺症である足の痺れは、もう治っているはずだ。
 本人は足の痺れがなくなったら調査は再開すると言い張っているが、まだ治っていないという彼女の言動が嘘であることくらい気が付いている。
 だが、それを追求してはいない。
 元より花城摩理の調査は亜梨子のすべきことではない。大助としても、守らなければならないトラブルメーカーがいない方が足を引っ張られず済む。
 苦しいのか、眉を下げて眠っている少女の姿に、空中庭園で彼女を見つけた時のことを思い出した。
 突然、大助の胸に飛び込んできた少女。
 何があったのか問い質しても全く要領を得ず、そのまま異常なまでに泣きじゃくっていた亜梨子が落ち着いたのは、日が暮れた後のことだ。
 虫憑きの最期を目にするのは、花城摩理を除けば初めてだったのだろう。亜梨子の性格を考えれば、確かにひどく落ち込んでも仕方がない出来事だった。
 菌も逃げ出してしまうような普段の元気があればともかく、精神的に弱っていた今は、熱を出して当然なのかもしれない。今までのストレスや疲れが、一気に訪れたのだとしても無理はなかった。
 今までが異常だったのだ。
 本来、ただの一般人が虫憑きに関わっていることの方がおかしいのだから。
 ……恵那や多賀子と平穏な日々を満喫しているのなら、その方がいい。

 携帯が鳴り響き、大助は亜梨子を起こさないように廊下へ出た。
 どうやら任務のようだ。ワンコが戦線離脱してからというもの、管轄外の仕事まで回ってくるようになった。
「……迷惑かけやがって、あのバカワンコ」
 まったく、今頃どうしているのか。





 任務が終わり、一之黒の屋敷に戻って来た大助が薄暗がりの部屋に入ると、すぐに穏やかな寝息が聞こえた。
 リビングでアニメを見ていた“霞王”にも静かにしていたという確認はとってあったが、直接見ると安心する。
 パジャマ姿で庭から抜け出すくらいのことはやりそうだからな、と花城摩理の調査に関わっていた時の姿を思い出す。
 静かにその傍らに座ると、寝息が止んだ。
「……怪我してるじゃない」
 眠っていなかったのか、それとも大助の気配で目を覚ましたのか、少女がかすれた声で言った。
「ああ、してるな」
 亜梨子の額からタオルを取り、洗面器に入れ、軽く絞ってから再び少女の額にのせる。
「また、虫憑き同士で戦ってたの……?」
「ああ」
「ねぇ……大助」
「……何だ?」
「……」
 しばしの沈黙が落ちた。
「どうして……私が虫憑きに認定されたこと、黙ってるの……?」
 修学旅行の夜からひた隠しにしていたはずのことを、どこで知ったのか。
「別に。何だっていいだろ」
「……よくないわよ」
「お前は知らなくてもいいことだ」
「私のことじゃない……」
「特環の、勝手に決めたことだ」
「それでも……私は、虫憑きとして認定されたんでしょう」
 嘆息し、口を開く。
「お前はただの一般人だよ」
 亜梨子が、大助を見た。
「虫憑きなんかじゃない」
 ただ、花城摩理の親友だっただけだ。
 虫を残された、ただの被害者でしかない。
 俺と同じ虫憑きなどでは、決して。
「なによ、それ……」
 むっと亜梨子が唸る。
 優しい魔法使いの一件以来、まるで虫憑きと関わることを恐怖しているかのように見える。
 今なら、これ以上虫憑きに関わらせないようにする方法もあるだろう。
 強く言えば、過剰に言って聞かせれば、今の亜梨子なら虫を忘れて生きるという選択肢もあるはずだ。
 けれど。
 それをさせない迷いが、大助の中にあった。
 亜梨子もまた、迷っているのだろう。
 今ならまだ、引き返せるのだ。
 亜梨子が、ポツリと呟く。
「……治ったら、すぐに摩理の調査に戻るから……」
 また、しばしの沈黙。
 咳き込み、少女の目元が潤んだ。
「花城摩理の調査は、俺が続けてる」
「うん……」
「いつだって、好きな時に来ればいい」
「……うん」
 力なく、亜梨子が微笑む。
 らしくない弱気な呟きを漏らす亜梨子が一刻も早く風邪を治し、いっしょにまた花城摩理のことを調査ができるよう願いを込めつつ。
 大助は、軽く絞ったタオルを少女の額にのせた。







夢待つ選択






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