「ばーか。ずっと遊ぶなんて無理に決まってるだろ」 兄貴はそう言った。 「お前もいつかは大人にならなきゃな」 そりゃそーだ。 生きている以上は誰もが変わりなく、分け隔てなく大人になるしかないのだし、今弟である自分はいつかは兄になるのだろう。 変化していく。 どうしようもなく。 変わるしかない。 抗う統べなく、流されるまま。 止まることも、過去に戻ることも出来やしない。 元に戻ることなんて出来やしない。 流されるまま変わっていくか、自ら変わるか。選択肢はたったの二つ。だが結局、どちらを選んでも辿り着く場所は同じなのだ。 それはきっと、どちらが先に傷付くかの違いしかない。 これこそまさに、 「――傑作だぜ」 まったく、笑えない。 かはは、と息を立てる人識の口からは赤い血が顎に伝っているし、何とか地面に立ってはいるものの、それが精一杯という有様だ。本来なら、小指一本動かすのもままならないだろう。 いや、実際今の人識は――右腕はともかく、左腕に関してだけいえば、本当に、小指一本動かすこともままならない状態なのだが。 人識の左腕。 それは、竹取山合戦で行われた、第零回目の戦闘と同じく――根こそぎになっていた。 奇妙なことに。 零崎人識と匂宮出夢が出会い、記念すべき零回目の戦闘と、決定的な決別となる第七回目の戦闘は――同じ結果を迎えた。 折れた左腕で、出夢の顔面を力任せにぶん殴るという――全く同じ方法によって。 またそれにより人識の左腕は根こそぎになり、小指一本動かせない状態になっているのだが、出夢に勝利した今、最早そんなことはどうでもいいようだ。 鼻血で顔を汚しながら地面に倒れている出夢を見下ろすように、人識は立っている。 一秒後には倒れていてもおかしくないボロボロの身体で。 何かに、突き動かされるように。 「ぎゃ、は――」 匂宮出夢は、そんな人識を見上げるだけで、起き上がろうとしない。 普段と違い、拘束衣を身に纏っていない今なら、その気になればすぐにでも立ち上がることもできるだろうに。 殴られた鼻から、惜しげもなく流れている鼻血を拭こうともせず。 混乱と戸惑いに満ち溢れた顔に無理矢理薄ら笑いを浮かべ、自分を見下ろす人識を見詰めている。 「折れてたんじゃねーのか、その腕……」 「あぁ? 折れてるのはお前が一番良く知ってるだろーが」 何せ、人識の左腕を折ったのは、今地面に崩れ落ちている匂宮出夢、本人なのだから。 だからこそ出夢は人識の左腕には注意を払っていなかったし、今、ショックを隠しきれていないのだが―― 「ついでに言うなら、てめーの顔を殴りつけた衝撃で尺骨まで折れてるだろうな。ったく、どうしてくれんだ、俺の大事な左腕。お前のために一本使い物にならなくしてやったんだ、有り難く思うのが礼儀だろーが」 人識は、かははと笑う。 「ぎゃはは――」 それを聞いた匂宮出夢もまた、血塗れの顔を歪めて声を上げた。 「……さて、一時間、か。ようやく、俺とお前の最終決戦は幕を閉じた訳だ。これで、お前といつ顔を合わせる羽目になるかとびくびくしながら過ごす必要もなくなった。肩の荷も降りるってもんだぜ」 心底ホッとしたというような顔をしながら、ふらつく身体で出夢に近付く。 「ぎゃはははは。そんなに僕と戦うのが嫌だったんだぁ? こんなに可愛い子が会いに行ってやってたっていうのに、人識ってばつれないねえ」 「嬉しかったっちゃあ嬉しかったけどな。ま、俺としちゃあ色々考えちまうもんで」 「で――考えた結果、今日でこの関係は終わりにするって結論になったって?」 「ああ。兄貴が言うには、いつかは大人にならなきゃいけないらしいんでな。俺はただ、それを少し早めただけだ。そりゃそうだよな、俺だってそれくらいわかっちゃいるさ。成長しないなんて、不老不死の薬でも開発されるんでもなきゃできっこない。仕方ねぇんだ。潔く諦めるしかないし、みっともなく足掻いてみたところでやっぱり諦めるしかねぇんだよ。もしかしたらとかいつかはとか夢見がちなことを言ってる歳は、もう卒業することにした」 動かない左腕を垂らし、傷付いた身体を引き摺りながら、一歩、また一歩と《人喰い》へ近付いていく。 ワーカーホリック。 戦わずしては生きていけない、匂宮出夢という存在。 考えてみれば、人識が今まで出夢の殺し合いという遊びに付き合っていられたことの方が異常だったのだ。ただ殺人鬼であるというだけの、特別戦闘に狂っている訳ではない人識にとって、出夢の“遊び”は余りにも異常過ぎた。 それに約三年もの間付き合っていられたのは、人識が人識であるが故だろう。 たった一人、人識に兄として認識されている零崎双識でさえ、彼の心中を理解することを諦めた。 零崎中の零崎。 常人の中ではもちろん零崎の中でさえ浮いている、匂宮出夢とはまた違う、異質な存在。出夢の“遊び”に付き合うには、彼以外いなかったとも言える。 適任――だったのだろう。 お互いに、相手と付き合っていけるのは自分しかいないだろうと。 そう思ってしまうくらいには。 汀目俊希という名前を失ってからの二年間。殺意しか向けられていなくとも、拒むことなく、憎むことなく、まだ“遊び”に付き合っていた――くらいには。 だが。 永遠に続くかと思われたそれを、終わりにする時がきたのだと―― 人識は、初めて自分から、“遊び”に来ていたのだった。 「俺は、こんなになっちまってもいずれどうにかなるかもしれない、なんて思ってたんだよ。我ながら阿呆くせーとは思うけどな。だけどこの間のお前との会話……じゃねぇか、あれは俺に出夢の姿を見せてただけだしな……あー説明すると長くなるからアレなんだけど……まあいいか」 人識の言葉に出夢が不思議そうに眉を潜め、首を傾げたが、人識は説明しようとはせず、疑問を放置したまま話を進める。特に話せない理由があった訳ではなく単純に面倒くさかっただけなのだが、もし追求されてもやはり話そうとはしなかったかもしれない。 「久しぶりに穏やかに話してな、やっぱり駄目だってことを再確認したんだ。そんだけのことだ。どうしたって、俺はお前のことを忘れることなんざ出来やしねぇし、殺すことも出来やしねぇってな」 俺は、お前を、殺せないよ。 もう一度、人識が言う。 出会ってから今日まで、殺す機会は正に死ぬほどあったはずなのに、出夢が人識を殺さなかったように。人識もまた、出夢を殺すことはできない。 コイツは、自分が俺を殺さなかった理由も、俺が自分を殺せなかった理由も、未だ理解してはいないかもしれないけれど―― と、人識は、出夢の顔を見て思う。 「……訳わかんないな。僕達どっちかが死なない限り、この関係に終わりなんかこないだろうが」 「それでも、お互い、大人にならなきゃいけねーってこった」 ――出夢、 と、手を伸ばせばお互いの身体に触れることのできる距離まで人識が近付いた瞬間、地に伏したまま微動だにしなかった出夢の身体が動いた。拳を振り上げ――平手ではないし掛け声もないから《一喰い》ではないだろう――人識の身体に飛び掛かってくる。 ナイフは全て使い果たし、素手で応戦するだけの体力も残っていない人識は、それを交わそうと咄嗟に身体を捻る。右腕で防御したため、左腕を下にする形で地面に倒れた。 「ぐ、ぅあっ」 余りの激痛に、人識の刺青が力なく歪む。 まず骨を折られ、その腕で出夢の顔面を殴り、そのうえ全体重の下敷きにしてしまったのだ。自分でももうどうなっているか解らず、病院に行ったところで果たしてちゃんと完治するのか聞くのも恐ろしい。 ぜいぜいと息を吐きながら、そのまま地面に転がる。 出夢はそんな人識の上に跨がると、その首に手を当てた。今、その手に力が込められれば、人識の鼓動はいとも簡単に止まってしまうだろう。 だがこの状況においても、人識の様子は変わらない。落ち着き払った様子で出夢の手を眺め、普段と同じ笑みを浮かべている。 それを見下ろす出夢の手に、指に、微かに力が込められた。 「人識――」 口から鼻に掛けて、自分の顔が徐々に膨れ上がっていくような錯覚。 出夢の細い指が首に食い込み、げふ、と咳にならない息が人識の喉から漏れた。 抵抗しようとしない、人識を見て―― 出夢の顔が、僅かに歪む。 「僕は、お前を、殺したい」 こんな顔をした出夢を見るのは、これで二度目だ。 一度目は、血と肉にまみれた、教室の中で。 あの時の出夢も、凄絶な殺意を瞳に映し――今にも泣き出しそうな顔をしていた。 俺はあの時、初めて。 相手の気持ちが痛いほど伝わるということは実際に起こり得るのだと、理解した。 溜め込んでいるものが、思いのたけが、想いの欠片が、感情の渦全てが凝縮された殺意が、人識を刺し貫く。 匂宮出夢は、じゃれつくような、甘く求め合うだけの殺し合いを断ち切り、 零崎人識は、狂おしく情熱的に、心の臓まで求めるような殺し合いを断ち切った。 「かはは」 「ぎゃはは」 出夢の指に込められていた力が抜け、人識は荒く息を吐きながら、それでも笑う。殺されなかったことが、当たり前だと、わかっていたことだとでも言うように。 まるで、今のも含めた全てが、出夢との“遊び”だったとでも言うように。 「俺は、お前のことが好きだ」 三年間。 殺意しか向けられていなくても。 憎しみしか向けられていなくても。 名前を捨てることになっても。 拒むことなく、憎むことなく―― 忘れることすら、出来ないほど―― 出夢のことが、好きだった。 殺されても、いいくらい。 絶対に殺せないと、思うくらい。 本当に、出夢のことが、好きだった。 「今でも、多分これからもな」 永遠に。 「お前のことは忘れるつもりだった。この気持ちは殺すつもりだった。殺した気でいた。でも、駄目だった。俺の中で、お前の存在は、大き過ぎた」 誰のことを見ても、出夢のことしか考えられない。 誰のことを好きになっても、誰のことを嫌いになっても、全部それは、ただ一人と較べてしまう。その人間のどこが出夢に似ていて、どこが出夢に似ていないか、まずその評価が第一に来る。 呪いのように植え付けられた、人識の絶対基準。 「俺には他人の気持ちが痛いほどわからねえ……それが悩みでもあった。それ以前に、他人に気持ちを伝えたいとも微塵も思っちゃいなかった。俺の気持ちは誰にも理解されないし、俺も人の気持ちは理解できない。もう、それでいいとまで思ってた。けどな、今、俺は初めて、人に自分の気持ちを伝えたいと思ってんだ」 自分の中に、何かが存在している。 それを見せたい。 痛いほどわかって欲しい。 かつて自分が出夢の気持ちを受け取れたように、言葉にできないものまで、出夢に受け取って欲しいのだ。 それができなければ、刃を向け合うしかない。 二人の間にあったそれ以外の感情を、築き上げてきた関係を全て打ち砕き、たった一つ残された刃を手に、傷を付けて理解させるしかない。 けれど、違うのだ。 人識が望むものは、初めて願った望みは、そうじゃない。そんなものじゃない。 今人識が手に取りたいのは、ナイフなんかじゃない。 「――出夢」 出夢――出夢、出夢、出夢、出夢、出夢、出夢、出夢、出夢、出夢、出夢―― 好きなのに。 こんなにも、好きなのに。 ……好きなのになあ。 「殺せなくて、悪かった」 まだ、なんとか動く右腕で出夢の頭を抱え、引き寄せる。 そして前置きも矯めもなく、唇に唇を重ねた。 「…………!」 驚いたように、出夢が身体を震わせたが、それだけだった。 人識よりも体力の残っている出夢ならば、振りほどくのは容易だったろう。 だが結局、暴れることもせず、口内に這入ってくる舌も防ごうとはしなかった。 五分程の長い口付けの後、ようやく唇を離す。 「……殺せて解せて並べて揃えて晒せてねーけど、その分きっちり愛してやっから、許してくれよ」 そんな人識の言葉に、出夢は―― 「許すわけねーだろ、ボケ。お前にできること全部してくれなきゃ、満足なんかするかよ」 そう答えて、不満そうに、本当に不満そうに、笑ったのだった。 そして、人識は意識を失った。 次に真っ白い病室で目を覚ました時、人識の側に出夢の姿はなく、代わりに「門限は五時だと言っただろう」と怒る兄の姿があった。 珍しいことに大将の姿まであり、聞いてみたところ、俺が意識不明の重体で(実際には意識は失っていただけで、不明だった訳ではない)運ばれたと兄貴に聞き、まさかと思いながらも駆け付けたらしい。 そんな兄貴もまた、病院から連絡があって知ったとのことだ。 いつもの如く俺を探していた兄貴が病院まで運んだのかと思っていた俺は、これには少し驚いた。病院側にも聞いてみたのだが、救急車を要請する電話があって駆け付けたところ、全身重症の人識が倒れているだけで、それ以外の人間は見当たらなかったと言う。 まさか、たまたま通りがかったお人好しな通行人にでも助けられたのだろうか? 真相は、未だ謎に包まれたままだ。 きっと、誰かが救急車を呼ぶおまじないでも唱えてくれたのだろう。 匂宮出夢との敵対関係、継続。 以降、彼等は一度も会うことはなかった。 人識が、欠陥製品と呼ぶ青年の口から匂宮出夢の死去を聞かされるのは、これより二年以上後のこととなる。 七度目にして愛を知る |