「鈴とはもうキスしたのか?」

 思わず、口に含んでいたコーラを吹き出すかと思った。
 ペットボトルを持っていない方の手でなんとか口を押さえ、入ってしまった空気も一緒に無理矢理飲み下す。喉を焼くような炭酸の刺激にむせかけたが、なんとか堪える。
 吐き出すものが何もなくなったところで、僕はようやく口を開けて咳き込むことができた。
「おいおい、大丈夫か?」
「っだ、誰のせいだと……」
 むせる原因になった質問をしてきた人間が、心配する素振りで僕の背を擦っている。真っ赤になった顔で睨むと、恭介は悪戯っぽく笑った。
 ほら深呼吸、と促されるまま二度、三度と息を吸っては吐く。落ち着いたところで、仕切り直しとばかりにもう一度恭介を睨む。
「いきなり何なのさ」
「付き合い始めたってのに、全然進展してなさそうだからな…俺なりに心配してるんだよ」
「余計な心配だってば…」
「じゃあ、もうキスくらいしたんだな?」
 言葉に詰まる。
 誤魔化そうと思ったが時すでに遅し、恭介はやっぱりなと言いたげな目で納得したように頷いていた。
 わかりやすい、とでも思われているのだろう。尤も、うまく隠していたとしても恭介はいとも簡単に人の考えを読み取ってしまうのだが。
 ……実際、鈴と付き合い始めてからずいぶん経った今でも、これといった進展はまったくなかった。
 元々付き合っているのだってどちらかが告白したからという訳じゃなく、いつの間にかそういう風になっていたにすぎない。
 修学旅行先へ向かうバスの転落事故。あの事故の後、僕らはずっと一緒にいようと誓って指を絡めた。朧気に記憶している“あの世界”の出来事や感情が、僕らの関係を変えたのだろう。もう二度とこの手を離さないと、胸に強く刻まれていた。
 それから、周囲には鈴と付き合っていると当たり前のように認識され、僕も鈴もそれに強く否定せず、曖昧に肯定したまま今に至る。
 何となく、実感がないのだ。初めの頃こそ浮わついた気分になっていたが、昔と変わりない鈴の姿を見ているうちにそれも落ち着いてしまった。
 考えたことはあっても、実際にキスするイメージが湧かない。
 こんな状態に、鈴はどう思っているのだろうか……?
「鈴は、お前から求めてくれるのを待ってるんじゃないのか」
 また僕の考えを見透かしたように、恭介が言う。
「そう…なのかな」
「多分な。好きな奴とキスしたいと思わない人間はいないだろう」
 恭介の言葉に、僕は鈴の姿を思い出した。
 僕は、鈴とキスがしたくてたまらないと思ったことがあっただろうか。映画のキスシーンを見てお互いに意識したことはあるし、たまに見せる女の子らしい表情に愛しさが込み上げ、キスしたいと思ったこともあったと思う。
 鈴のことが好きなのは間違いない。だけど、何故か躊躇ってしまう。その理由が、思い出してはいけないようなものの気がして、理樹はブレーキを踏んでしまう。
 鈴に「ずっと一緒にいよう」と言った、最初の理由。
「キスって、どういう時にすればいいんだろう」
「そりゃあ、その場の雰囲気ってやつだろ。夕日をバックに二人っきりの教室で、こうお互いの手を絡め合って……ぶちゅーっと」
 シミュレーションしているのか、恭介が僕の手を握ってくる。片手に持っていたペットボトルは、危ないのでテーブル代わりにしている段ボールの上に乗せておく。
「夕日をバックに二人っきりの教室じゃないと駄目なの?」
「漫画でよくあるだろ?」
 恭介らしい理由だ。
「恭介って、少女漫画も読むんだね」
「フッ、俺は漫画だったら通信教育の宣伝漫画だって読むぜ」
 自信満々だった。
 僕も小学生くらいの頃は、通信教育の広告に付いてくる宣伝漫画はちょっとだけ楽しみだったっけ。本当に、子供のような人だ。繋いでいる手から伝わってくる体温が高いのも、そう思わせた。
「恭介は、キスしたことあるの?」
「……何を隠そう、したことなんてもちろんない!」
「えぇー」
「だが恐れることはない、予習は漫画で完璧だぜ。想像の俺は百戦錬磨さ!」
「いやいやいや……」
 どうしようもないことに自信満々だった…。
 彼女いないんだから仕方ねぇだろっ! と叫ぶ恭介。美形で頭も運動も得意な恭介にはファンも多い。それで何故彼女がいないのだろうと疑問に思う人間もいるかもしれないが、僕は何となくわかっていた。
 きっと、僕と同じなのだ。
 恋人ができれば、今のリトルバスターズの関係が――幼い頃からの僕たちの関係が、壊れてしまうかもしれない、そんな不安。そして、恭介は妹である鈴が大切で心配で仕方がないのだと思う。鈴以上に思える存在が、恭介にはいないのかもしれない。
 婚期が遅れそうな人だと思った。
「実際その時になって失敗して、俺の妹に嫌な思い出を作るなよ」
「キスで失敗ってあるのかなぁ」
「歯と歯が当たるとか」
「それは痛そうだね…」
 そんなことになったら、鈴にはもうどんな顔をして会ったらいいかわからない。
「心配か?」
「言われたら心配になってきたよ…。うーん、でも練習しようと思ってできるものじゃないし……一発勝負しかないよね」
 何か今更ながら変な会話してるなぁと思いながら苦笑する。
 ふと、握ったままでいた手に力が込められたことに気付き、恭介を見る。何だろう? と不思議に思い声をかけようとしたが、恭介の方が先に口を開いた。
 部屋には二人しかいないから誰かに聞かれる心配はないのに、内緒話をするみたいに耳元に近付いてくる恭介。

「……するか? 練習」

 囁かれた言葉を理解するのに、一瞬時間が掛かった。
 顔が赤くなったのが自分でもわかる。
 吐息がかかる距離で言われたものだから、余計に変な風に考えてしまう。
「い、いや、それは――」
 ……そこまで言って、これが恭介のいつもの冗談だということに思い至った。そうとわかれば、慌てていてもからかわれるだけだ。そう思い、少しだけ安堵して恭介に向き直る。
「また…何言ってるのさ、恭介」
 友情様ごめんなさい、と心の中で手を合わせたのだが――恭介の、思いもよらない真剣な表情にそれ以上何も考えられなくなってしまう。
「嫌か?」
 あ、あれ……?
「これって、いつもの冗談……なんだよね…?」
 答えはない。
 ただ、真っ直ぐで真剣な顔だけが僕を見ていた。
 顔が熱い。
 このまま黙っていたら、どうなるだろう?
 静寂の中、恭介の躊躇いだけが敏感に感じ取れた。もう恭介の手の熱さが気にならないくらい、僕の手も熱を帯びていた。
 このまま黙っていたら……恭介は、いつものように、冗談だと笑うのだろうか……?
 どうしてかはわからない、だけど僕はそれだけは言わせてはいけないとひどく焦って、思考がまったく纏まらない。
 恭介の口が今正に動こうとしたのは、僕の想像だったかもしれない。
 だけど、僕はそれを言わせまいと先に言葉を発していた。
 その言葉に驚いた恭介が、「……マジか?」と呟いている。
 マジ、と頷くと、珍しいことに恭介は少しだけ顔を赤くしていて――

「目、閉じろ」

 言うなり、端正な顔が近付く。
 慌てて目を閉じる。
 下を向いてしまっていたのだろうか、少しだけ顎を持ち上げた恭介の手がくすぐったくて、ゾクリと体が震えた。
 恭介の、逡巡する気配が伝わってくる。ただ握っていた手を、恋人がするようにぎこちなく指を絡めていた。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いているのに、恭介の吐息だけは耳に届く。恭介の動作一つに、僕の神経すべてが集中する。

「………恭介、練習…なんだよね?」

 薄く、目を開いてしまった。
 触れるか触れないかという寸前にあった恭介の顔をまじまじと見る。こんなに近くで見たのは初めてだった。端正な顔立ちをしていると思っていたが、近くで見ると睫毛も長い。
 僕の言葉を聞いて、恭介が微笑む。

「あぁ……理樹。これは練習だ…」

 再びゆっくりと目を閉じるのと同時に伝わってきた感触に、絡めた指に僕からも力を込めた。
 思い出す。ずっと一緒にいようと鈴に告げた時、何を思っていたのかを。鈴の手を離したくない。本当に、それだけだったのか?
 違う。その思いに隠れるように、隠すように願っていたことがあったじゃないか。後ろめたい思いを鈴への気持ちに隠して、僕は鈴の手を握ったんじゃなかったか。
 思い出せ。幼い頃から、僕が握っていたかった手は誰のものだったのか。
 僕はこう思ったんだ。
 ……鈴と一緒にいれば、兄である恭介もずっと僕の側にいてくれるだろうと。
 憧れや羨望、尊敬や兄のように慕う気持ちとは別の想い。それを口にしてしまったら、今の関係が壊れてしまうような気がした。
 恋人の兄なら、練習なら――そんな風に、まだ誤魔化して、逃げ出していた。

「理樹……」

 普段より低い、恭介の声。
 リトルバスターズを、鈴との日々を、恭介との関係を失わないように、越えてはいけないと守っていた一線を忘れてしまいそうになる。
 もう克服したはずの深い眠りが襲ってきそうな、とてつもない恐怖だった。失うかもしれない不安に、思うように口が動かない。
 頻繁に、唐突に僕を襲った悪夢。けれど、悪夢から覚めたときに側にいてくれる仲間がいた。手を握っていてくれた人がいたことを思い出す。
『起きたか?』
 微笑んだあの人がそう聞いてきてくれたあれは、いつのことだっただろう。
 目を開くと、照れているのか曖昧に笑って僕を見ている恭介がいた。離れていこうとする体を、ほどこうとする指を僕は留める。恭介に何か言わせる暇もなく、ギュッと目を瞑って、今度は僕の方から唇を重ね合わせた。言葉にならない気持ちを、唇の熱で伝えるように。
 恭介の言葉を借りて言うなら、好きな人とキスしたいと思わない人間はいないのだ、と。

「――これも、練習だから」

 言葉もなく呆然としている恭介が、なんとなく可笑しくなった。普段あれだけ人をからかっているくせにと思ったが、だからこそ自分が何かされるのは慣れていないのかもしれない。
 狼狽えた様子で、恭介が僕を見る。顔が赤い。
 心地よい関係が壊れてしまうかもしれない恐ろしさを捩じ伏せ、先に進まなければいけないと教えてくれた人は誰だった?
 “あの世界”で、僕たち二人を強くしてくれたのは、恭介だ。
 その恭介から、逃げてどうする。
 けれど、せめて今はまだ――練習ということにしておこう。しておいて欲しい。
 鈴への気持ちと恭介への気持ちが、それぞれどう違うのか自分でもよくわからない今は。

 じゃあ、これも練習な――と、恭介から伝わってくる二度目の熱に、くらくらした。
 握っていたかった温もりを、僕はもう手に入れていた。








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