私の世界は真っ暗で、何も見えない。
 物の形状も、人の表情も、太陽の眩しさも、星の瞬きも何もない。
 綺麗というものが、どんなものなのかわからない。美しいもの。輝いているもの。一瞬の煌めき。そう聞きはしたけれど、私はどれも知らないので理解するのは諦めた。
 周りにいる人が言うことを、私は信じるしかない。
 周りにいる人が言う。夕暮れの空は金色なのだと。私は色を認識したことがなかった。だから、金色がどんな色なのかわからない。
 ――それは“綺麗”なの?
 尋ねると、その人はそうだよと微笑んだ。金色を想像しながら微笑み返した私の視界には暗闇が広がっているだけで、想像することすらできなかったけれど。

 幼い頃。自分は人と同じ世界を見れないのだと理解した時から、周囲の言動に合わせることを覚えた。
 ものを形で捉えることができない代わりに、普通なら聞こえないような小さな音を捉えることができるようになった。空気の変化、言動の中に表れる些細な変化で感情や嘘を見抜けるようになり、それを読み取りながら生活する。そうしていれば、まるで他人と同じ世界を見ているかのように振る舞うことができた。
 本当は、自分の足元も見えない暗闇に立っているのに。

 ――この世界は、綺麗だね。

 こんな私の言葉を、誰も、何も、疑わない。
 真っ暗な、私の世界。
 嘘で塗り潰されているわたしの世界に、誰も気付かない。

「千莉の手は、温かいね」

 それはね大クン、私がみんなの温かさを奪ってるからなんだよ。大クンの温かさをもらっているからなんだよ。それでみんなの手が冷たくなることを知っていて、気付いていて、私はみんなの手をぎゅうと握り締めているんだよ。
 だって、怖いんです。みんなが私の手を握っていてくれるから、私はこうして歩いていられる。だけど、ほんの気まぐれで手を放されてしまったら、私はもう歩くことも叶わないのです。自分の足が地面についているかどうかも、わからないのです。みんなは、私の杖なんです。

 ――お兄ちゃんには、私のことなんて忘れて幸せになって欲しい。

 嘘。
お兄ちゃんが不幸になっても、どれだけ周りに迷惑をかけても、みんなにずっと側にいてほしい。暗い世界は、怖くて冷たくてひどく寂しい。だから、私は私のためにみんなと一緒にいることを望んでいる。みんながくれる優しさを、ただ受け取る。
 側にいてくれて、嬉しい。感謝している。お兄ちゃんだけじゃなく、みんな幸せになって欲しい。それも、確かに自分の願いだった。側にいて欲しいのと同じくらい、みんなのことが大好きなのと同じくらい、その温かさに応えたかった。本当のことを伝えたかった。
 ずっと言いたかった。
 伝えたら離れていってしまうかもしれないという恐怖が私を駆り立て、ずっと言えずにいるのだ。
 そんなに心配しないでって。
 私はもう、大丈夫だよって。
 けれど私はまだ、それを伝えられずにいる。

「ねぇ、杏本さんと……知り合いなの?」
「え? あ、えっと……うん。昔、会ったことがあるんだ」
「ふぅん……」

 怖い。
 今感じている温もりがなくなってしまうことが、何より怖い。
 色も形もない世界で、温もりすらなくなってしまったら私は私自身の形も見失ってしまう。
 私はまだ、この手を離せずにいる。
 私はまだ大丈夫じゃないから、側にいてねと嘘をつく。
 真っ暗闇の世界は、きっと私に対する罰なのだ。








美しい世界






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