教室のドアを真剣な面持ちで見つめる。高鳴る心臓を宥めようと深呼吸し、鞄を持つ手に力を込める。
 昔、私はきっと世界一の臆病者だった。
 幼い頃に住み慣れた街を離れることになったのは、父親の転勤というごくありふれた理由。人はたったそれくらいのことでと笑うかもしれないけれど、私はそのたったそれだけが嫌で泣き喚いた。
 普通はどんな理由があって引越しが嫌だと言うだろう。仲のいい友達と離れてしまうからというのが、一番ありふれた理由かもしれない。
 自分の場合、そうではなかった。仲のいい友達など元からいないし、学校で口にする言葉などせいぜい挨拶と問題を当てられた時くらいなのだから。
 周囲に溶け込めず、何をするにもトロい自分。周りがどんどん変化していく中で、自分だけが取り残され変化しない。
 そんな自分が、見たことも聞いたこともない場所で暮らしていかなくてはならない。それが怖くて、恐ろしくて、暮らしていける自信がなくて、自分にとって異世界に行くようなもので、行きたくないと泣いて騒いだ。
 今まで我が侭の一つも言わなかった自分がそんな風に泣くのを見て、姉だけは「私と残ろう」と言ってくれたけれど、そう言った姉もまた幼い少女には変わりなかった。結果、幼い少女を二人だけで残していけるはずもなく、両親に「仕方ないでしょう」と諭されてしまったのだが。
 美人で、長い髪が綺麗で、頭が良くて要領もよく、どんくさい自分をいつも庇ってくれた優しい姉。そんな姉ならば別の街に行っても、すぐに溶け込み笑顔で日々を送るのだろう。
 ……両親の期待が、全て姉に向いていることを知っていた。
 同時に、自分が邪魔者だということを理解していた。
 家に居づらかった。引っ越したあとのことを楽しそうに話す両親と、友人達と寂しそうに別れを告げている姉。その中にいる自分は、なんて不自然な存在なのだろう――
 気がつけば家を飛び出し、雪の降る寒い街中を走り始めていた。普段はあまり行かない、家から少し離れた場所にある寂れた公園まで走ったところでようやく我に返った。
 すでに歩いているだけになっている足はガクガクと震え、身体の限界を訴えてくる。
 疲れきった体で、転ぶようにして雪の上にへたりこんだ。
 ……このまま雪に埋もれて、きっと自分など元からいなかったように消えていくのかもしれない。
 世界は私という異物を取り除き、元の正しい形へと戻るのだ。
 それがバカみたいな被害妄想だとはわかっていても、そう考えずにはいられなかった。考えただけではない、そうなることを願ってすらいた。

 わたしがそばにいてもいい、居場所が欲しい――

 ちっぽけな夢。
 たった一つの、小さな願い。
 いつからか自分の中に生まれた想いすらも叶わないのなら、いっそのこと消えてしまいたい――
 しんしんと降り積もる雪が、自分の存在をかきけしていく。
 自分がいなくなっても何も変わらないのではないか、そんな漠然とした不安が自分の中で確かな事実として塗り替えられていく。不安や焦りや恐怖に、埋め尽くされる。ゆっくりと。ゆっくりと自分の心が、凍っていく寸前。
 いつの間にそこにいたのだろう。
 確かな存在感と裏腹に平凡な顔立ちをした少年が、自分のことを見下ろしていた。
 外形とは似ても似つかないはずなのに、一目で自分と似ていると思った。外形どころか性別すら違うその少年を見た瞬間、枯れ果てたように止まっていた涙がまた流れ出し、雪を溶かした。
 足元から順に、視界に見える全ての雪が溶かされていくような錯覚。
 頬に絆創膏が貼ってあった、顔はもうそれくらいしか覚えてはいないのに、少年を見た瞬間感じたあの感覚だけは数年が経った今も思い出せる。
 今だからこそ思う。
 自分は、彼に出会うためにあの場所まで走ったのだ。
 たった一度きりの邂逅。
 一時間にも満たない会話。
 自分は泣きながら少年に不安をさらけ出し、また泣き、夢を語り、困ったように自分を慰めていた少年の夢を聞いた。

 ――オレの夢と、似てるな。

 もう一度泣いた。嬉しくて、笑いながら泣いた。
 居場所が欲しい。そのちっぽけでも譲れない願いをこの少年もまた、持っていると言う。
 それならば、自分と同じ夢を持つこの少年に私の「想い」を持っていて欲しかった。

 ――いつか必ず、戻ってくるから。きみがいる、この街に。
 だから……だから、待っててね。
 またわたしを、見つけてね――

 もう一度会えるという口実が、確かな約束が欲しい。
 その一心で告げた言葉に、少年は確かに笑い――ああ、約束だ。と、笑って頷いてくれた。
 どうして私ばかりがつらい目に合うのだろう。他の人たちなんてみんな、消えてしまえばいい。そう思ったこともあった。
 だが、もう諦めない。もう負けない。迷わない。
 声を忘れてしまっても、顔を忘れてしまっても、自分と同じ夢を持つ少年を忘れてしまわない限り――自分はまだ歩いていける。
 要領が悪く、自己主張の薄い自分は、やはり新しい環境に慣れずずいぶんと苦労したけれど。時には泣いて、潰れてしまいそうになった時もあったけれど。
 それでも、私はもう消えたいとは思わなかった。生きて、時間が経つ毎に膨らんでいく夢を叶えたい。あの時夢を語り合った少年のことを思い出すだけで、頑張ろうと思うことができた。
 新しい街でいくら過ごしても、少年を忘れたことはない。
 そして、五年後。
 元の街へ戻ることを強く望んでいたことと、父の仕事の都合。その二つが重なり、また元の街に戻ることとなったのだ。最も母はしぶったのだが、大学受験にちょうどいいと姉が説得してくれた。大好きなお姉ちゃんに感謝だ。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと、私は待っていたのだから。
 この時のためだけに生きていたと言っても過言ではない程に。
 きっと、もう一度会える。
 いくら変わっていても、例え忘れられていても、またあの少年に会いたかった。
 今日は、その第一歩とも言うべき転入初日。
 教室の中から入って来なさいと促す教師の声がし、私は戦いを挑むみたいに睨みつけていたドアに手をかけた。
 ドアを開き、教室の中へと踏み出す。
 寒い廊下と違い、暖房の効いた暖かい教室に安心し肩を下ろした。
 視線が刺さるみたいに自分に集中するのがわかる。

「あ……杏本、詩歌です。よろしくお願いします」

 注目していた視線が、だんだんと別のものに移っていく。
 隣の席の友人と話す人。
 こっそりと漫画や携帯を弄っている人。
 肘をついて窓の外を眺めている人。
 その中で、頬に絆創膏を貼ったごく平凡な顔立ちをした少年が――時間が止まったように、自分を見ていた。
 目が合う。
 足元から順に、視界に見える全ての雪が溶かされていくような――錯覚。

 詩歌は、確かに感じていた。
 願い続けていた夢が叶う、その未来を。








最高で最悪の転入生







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