その後、亜梨子は決して大助に“遊ぼう”などとは言わなくなった。 お仕置きタイムだと称して部屋に来ることも、もう毎日ではない。下着が見えてもお構いなしという部分は残ったままだが、そこまでの改善を求めるとなると性格ごと変えろと言っているようなものなので妥協するしかないだろう。 しかし、困ったことが一つ。 「……おい、亜梨子。そろそろ、朝からずっと人の顔をゴミでも見るかのような目で見てる理由をきかせてくれ」 ホルス聖城学園の教室に着いたところで、隣を歩く少女に思いきって話しかけた。が、反応はない。見るからに不機嫌そうに、というより気持ち悪そうに、顔を背けられてしまう。 大助には何の理由も思い当たらないが、登校前にどこぞへと出かけていたようだったからその時何かあったのかもしれないと見当を付ける。“C”か“ねね”か、もしや“ころろ”にでも何か吹き込まれたか……この様子だと、それもあながち間違いではなさそうだ。 ――ごめんなさい。 あれ以来。 亜梨子は、性的な行為に対して過剰なまでの敵意を持つようになった。 それも少女自身に関わることならば良かったのだが、何故か大助に関わることのみという傾向がある。“ころろ”と会っていたと分かれば、一日中大助のやることなすこと文句を付けて回るのだから手に負えない。 恵那や多賀子にまで何事かを吹き込み、煽っているところを見ると、またその類だとは思うのだが……。 「……ん?」 廊下を通り過ぎた少女の鮮やかな金髪が目に入り後ろを向くと、少年の補佐役として同校に紛れ込んでいる御嶽アンネリーゼ――“霞王”までもが上品な顔つきを豹変させて大助を蔑んでいた。唾を吐くジェスチャー付きだ。 「胸に手を当てて考えることね。――それとも、もう手を当てているのかしら? 自分以外の人の胸に、ね」 うまいこと言ってやった、みたいな顔で口の端を吊り上げる亜梨子。「なんであんな女に……言ってくれればアタシだって……」「いやらしい……」と二人の少女までもが一変した目つきで同意していて、反感を買わない程度に反論する。 こうなってしまうと、飽きるまで遊ばれるということは経験済みだ。諦めて席に向かう途中、近くにいた女子生徒の言葉が耳に入る。 「なにあれ……自分はもっとすごいことさせてるクセに」 亜梨子に聞こえるような絶妙な音量だ。あの噂を知っているのだろう、嘲りを含んだ態度。 頭にきて睨むと、そそくさと逃げて行く。 今までも、大助が気が付かなかっただけでああいう陰口は存在していたのだろうと思うと気分が悪い。黙って席に座ると、いつかのようにその前の席に御林が座る。 「薬屋くん、もしかして一之黒さんと付き合い始めたの?」 開口一番、これだ。合コンと言い、この間のことといい、つくづく色恋沙汰が好きな人間だと思った。 「またそれ? 何度否定すれば気が済むのさ」 「いや、だってこの間からまた妙に仲良くなってる気がしてさ……大丈夫なのか?」 「何が?」 「僕があの話してからそんなに仲良くなられると、ちょっと怖いんだけど……もしかして、懐柔されてないよね?」 内心、溜息。 “あの”一之黒亜梨子が、男と仲良くしているというだけでそう見えてしまうのだということはなんとなく感じていた。知らなかったとはいえ、自業自得の行為ではあるのだろう。けれど、そんな視線を向けられる男側の身にもなってほしかった。 これでは亜梨子が本気で恋をし、恋人を作ることがあっても、気が滅入って破局してしまいかねない。亜梨子のことだって、もう二度とそんな目で見てほしくはなかった。 「……忠告ありがとう、けど――」 談笑する少女達の声を背後に、ポツリと呟く。 ――亜梨子はそんなに、安い女じゃねぇよ。 「懐柔もされてなければ、惑わされてるわけでもない。そんな忠告、俺には必要ないから」 にっこりと笑い、御林の顔も見ずに席を立つ。 振り向くと、どこか不安そうに大助を見ている亜梨子と目が合った。恵那や多賀子はバラバラに席へと向かっていて、一人佇んでいる。 「亜梨子」 「大助――」 近付いて肩に触れると、僅かだが震えているのがわかる。 先ほどの女子生徒か、御林の言葉か。どちらか、あるいはそのどちらもが、聞こえてしまったのだろう。 今までもあったはずの陰口は、自分のしてきたことの意味を理解することでようやく意味をなしたのだ。亜梨子の精神を崩壊させようと、ちくちくと突き刺しては居場所を削って孤立させる。 暗い顔で俯いている亜梨子を見ると、胸が痛んだ。コイツらしくない、と腕を取り、安心させるようにぎゅっと握る。 「亜梨子、ジュース買いに行こうぜ」 「え? で、でも、今からホームルームが……」 「一限目に間に合えば大丈夫だって。どうせお前はまた、小銭持ってねえんだろうし。一緒に行けば、また変な奴に声かけられても俺が追い払えるだろ」 戸惑いに固くなっている手を引いて、次第に立っている生徒が少なくなっていく教室を抜け出した。 人の目が少なくなると同時に、亜梨子が顔を上げて微笑んだ。 「……ありがとう、大助」 湿った言葉は聞こえなかったフリをして、廊下を歩く。階段を降り、自販機へと向かう。 角度によって色を変える、大きな黒い瞳。 穢れなき宝石のような、純真無垢の象徴とも思える澄んだ色。 大助は多分、それを汚したくなかっただけだった。 手の温かさや、見かけによらず女の子らしい柔らかさ。片手で持ち歩けてしまいそうな身体の軽さや、浮足立たせる髪の香り。それらの全てを、これ以上広めたくはなかった。 忠告など、元より意味はなかったのだ。それをするには、遅すぎた。亜梨子の生活に介入して、心に踏み込まずにはいられない場所まできてから「やめておけ」と言われたところで、今更誰が戻れるだろう? 多かれ少なかれ、傷を付けた。浅い深いの差はあれど、亜梨子も大助も痛みに悩んで苦しんだ。けれど、後悔だけはしていないと断言できる。 捻じれていた認識を、正してやって。それでもなお、少女が絶望に膝を折っていないでいられているのは――こうして大助が手を繋いでいるからなのだと、自惚れることができているから。 いつか、亜梨子が――。 大助にならと、身体を任せてくれる日が訪れるまでは――。 ほんの少し、小銭を渡す程度の助けを、していられるように。 「亜梨子、お前何で今朝から機嫌悪かったんだ?」 「そ、それは、あなたが香魚遊と、ぺろぺろだけじゃ飽き足らずもみもみまでしたって聞いたから――」 今日の放課後も調査で忙しくなるのだろうと、大助は亜梨子の手に硬貨を乗せた。 |