「いくらなんでも、小学生だぞ? ありえないだろ、流石に……」

 夜。
 一之黒家本邸にある、客人用の和室。
 必要最低限の家具しかない殺風景な部屋。その中心に寝転がった少年の口から、重苦しい呟きが漏れる。
 夕食を終え、風呂に入り、あとは寝るだけとなった今なお大助の能を支配しているのは、学園で耳にした“噂話”についてだ。かれこれ六時間以上考え続けていることになるが、内容が内容なだけにそう簡単に信じることなどできやしない。
 御林以外のクラスメートか、恵那や多賀子にでも聞いてみれば何かしらの情報を得ることもできたのかもしれない。しかしそうする気にもなれなかったのは、無意識的に聞きたくもない真実から目を背けようとしていたからだ。
 そんな噂信じてたの? と一笑に付されることで胸を撫で下ろし、後ろ暗い気持ちを捨ててしまえる可能性もあった。けれど、もし――もし、実際に現場を見たという御林以上に知っている人物に当たってしまったら?
 それはもう――“友達”と呼ばれ、“お世話になっていた”者だけだ。
 あれが御林の作り話だとしたら、流れてもいない噂を大助自身が広めてしまうことになる。作り話でないとするならば、胸糞の悪くなる未来だけが待っている。
 どちらに転ぶのも嫌だった。知ってしまえば戻れない。それならば、いつか忘れてしまえるまで知らないままにしておけばいい。少女に対する不信感と、それに伴う罪悪感に身を焦がすのもいい加減うんざりだった。
 自分でも、何故ここまで噂の真偽に固執するのかわからない。一之黒亜梨子と出会ったばかりの彼ならば、彼女がいくら誰にでも身を許すような人間であろうと監視任務にさえ支障がなければ問題にはならないと気にも留めなかったはずだ。それなのに――。
 今の大助は、どうだ。
 狼狽し、恐怖すら抱き、嘘であれと願っている。
「……チッ」
 まったく、どうかしている。
 全てを忘れて眠ってしまえたら――閉じた瞼の上に腕を置くのと同時、乱暴に部屋の襖が開かれた。
「大助、ご主人様が遊びに来てあげたわよ!」
 もはや姿を確認するまでもない。大助の意思など省みず、横暴に傲然たる台詞を吐く人物の心当たりなど、一人だけで十分だ。
 誰がご主人様だ、誰が。普段ならば飛び起きて言い返してやる場面だったが、今日一日考えていたことのせいでどんな顔を向けたらいいのかわからない。
 どうせ、ここで起きても彼女が眠気に耐えられなくなるまで言い合いが続くだけなのだ。それならば、眠ったフリをしてやり過ごしてしまうほうが余程無難と思えた。
「……」
「あら、寝てるの? せっかくこの私が奴隷で遊びに来てあげたっていうのに、感謝もせずに寝こけているのね? お仕置きタイムに変更しなくちゃならないわ……亜梨子十字固め!」
「うわっ!? ば、バカ、何――あだだだだっ!」
 言うが早いか、少女が大助の片腕をふとももに挟んで絞め、両手で肘関節を思い切り逆に伸ばした。両足首が反対の腕を挟むように絡められ、てこの原理を利用してぐいぐいと反らされる。
 風呂上がりだからだろう、しっとりと湿った柔らかい肌の感触に取り乱すのも一瞬――押し付けられる股間の熱さや、手の平に僅かに当たっている気がしてならないマシュマロのような膨らみのことなど、腕を走る激痛に簡単に掻き消された。悲鳴を上げ、唯一自由になっている足で床を叩く。
「ギブ! ギブ! 起きる、起きるから――うああああっ!」
「ご主人様が、遊んで、あげるって言ってるのに……寝てるなんて奴隷失格よね!? そうでしょう!? 眠くなるまで構いなさいって、言ってるのよ!」
「最後! 最後本音が出てるじゃねえか! も、もうやめ、わかった! わかったから腕を離せえっ!」


 一切の加減もなしに技を極められ続けた後、やっとの思いで解放された大助が不機嫌を露に嘆息する。
 一方、自称ご主人様はご機嫌そうだ。いい暇つぶし道具が見つかったとでも言いたいのか、勝ち誇った顔で少年の頬をつついている。
「ったく、人が休んでるところに何なんだお前は……明日も学校なんだから、さっさと寝ろよな」
「眠くないんだもの。ご主人様を満足させるのが奴隷の喜びでしょう、ほら、何かやってみせなさい」
「知らねーよ、なんだその自分勝手な言い分。ふざけんなバカ亜梨子」
 亜梨子の手を振り払い、横になる。背後からむっとした様子が伝わってきたが、無視した。
「もう、ちょっとくらいいいじゃない」
「ちょっとじゃないだろ、毎日だろ毎日。何かにつけて部屋に来ては暴れまくりやがって……何がお仕置きタイムだ、何がご主人様が遊んでやるだ。遊んでほしいのはお前だろうが」
 これだからガキは……。
 大助が何を考え、何に悩んでいるかなど知りもしないで。
 いっそ、ここで直接聞いてしまおうか。本人に問い質してしまえば、これ以上妙な噂話に振り回される必要もない。
 そんな目で見てたなんて、と怒りに肩を震わせながら涙を溢す亜梨子の姿を想像して、自嘲に口を歪めた。
 それも、いい気がした。失望され、嫌われてしまえば、噂話だけでなく亜梨子自身に振り回される必要もなくなるのだ。
「あのさ、亜梨子」
 振り向き、再度身体を起こす。
 大助の気が変わったと思ったのか、つまらなそうに肩を落とし、髪を弄っていた亜梨子の顔が僅かに華やぐ。
「お前って、その……」
 視線を合わせてしまうと、決意が揺らいだ。言葉に詰まり、言い淀んだ末に口を閉ざして黙り込む。
 下世話な疑いを持たれていることも知らず、亜梨子は静かに言葉の続きを待っている。騙して、裏切っているかのような罪悪感と自己嫌悪に、激しい頭痛と眩暈がした。
「――いや、なんでもない」
 馬鹿馬鹿しい。
 異性を意識していない亜梨子の行動は、そうされても構わないからというものではなく、そうしたことでどんな反応をされるのかまるでわかっていない童女の如き純粋さからくるものだ。
 ――亜梨子に限って、有り得るわけもない。
 噂は噂。そう結論付け、ぼうっと見つめ続けてしまっていた亜梨子の身体から目を離す。
「悪い、忘れてくれ。バカなこと考えてた」
「……なるほど、そういうこと。うふふ、大助も遊びたかったんじゃない。素直じゃないわね」
「は?」
「そっか、そうよね、大助も男の子だものね。私も中学に入ってからは女の子とばかり一緒にいたもの、男の子との遊びなんてすっかり忘れてたわ」
「お、おい?」
 分かりやすくおかしな態度を取った大助を、どのように解釈したのか。
 亜梨子は、何かに思い至った様子でパジャマのボタンに手をかけた。
「え……あ?」
 呆然と、それを見守る。
 あまりの驚きに、呆けた声を出すだけで精一杯だった。
 一つ、二つと、いとも簡単に外されていくボタン。三つ、四つと亜梨子の手が下に降りていくたびに滑らかな肌色が大助の目に晒されていく。最後の一つまで外し切り、「ちょっと待ってね」とパジャマのズボンにまで手をかけようとしたところで、ようやく何が起きているのかを理解した。
「お、お前――何してんだ! 意味わかんねえ、なんだっていきなり脱ぎ始めて――」
 怒鳴り、腕を掴んで押し留める。

 ――誰とでも寝てた、って話。

 御林の作り話だと断じ、この一年間見てきた亜梨子を信じようと決めた直後だった。だと言うのに、この光景は何だ? 亜梨子は激昂する大助に目を丸くするばかりで、肌を隠そうともしていない。
 導かれる答えなど、ただの一つしかありはしなかった。
「本当……なのか? あんな話が……? お前はずっと、こんな風に、誰とでもしてきたって……?」
「いたっ、腕を離して……離しなさいったら! ……急に、どうしちゃったのよ?」
「どうした……って、こっちの台詞だ! バカだバカだと思ってたが、ここまでバカだと思ってなかったぞ!」
「なっ――どういう意味よ、バカ大助! ご主人様の好意を無下にしようっていうわけ!?」
 訳が分からなかった。好意でやっているとしたら、亜梨子自らが望んでやっているよりも性質が悪い。肌を露出させていることになんの躊躇いも感じていないのか、恥じらう素振りすら見せない亜梨子はこうなるまでにどれだけの経験を積んできたのかと想像するだけで腹立たしさが増した。
「そんなことで、誰でも喜ぶと思ったら大間違いだ。だからお前は、バカなんだ」
 一層力を込めて腕を握ると、痛みに亜梨子が怯んだ。鋭い眼光に射抜かれ、吊り上げていた眉を弱弱しく下げる。その顔は親に怒られた子供のように頼りなさげで、今にも泣きだしてしまいそうですらある。
「大助はこれ、嫌いなの? 男の子だったらみんな大好きな遊びなんじゃないの? 大助の様子がおかしかったのも、これで遊びたかったからじゃなかったの? そう思ったから、私は……」
 立場が悪くなったら、被害者面か――そう吐いて捨てようとして、息をのんだ。
 こいつは今、なんて言った?
 ……遊び?
 どこか、聞き覚えのあるフレーズ。そういう行為を、暗喩として遊びと例えること自体は稀にある。けれども亜梨子の言う“遊び”は、わかっていて含ませているものではない気がした。
 どこか、食い違っている。喉に骨がささっているようなひっかかりを覚え――亜梨子と御林の言葉を思い出した時、考えられる中で最も最悪の想像が大助の胸を過った。
 ――大助も遊びたかったんじゃない。
 ――楽しい遊びでもしてるみたいに笑ってたんだよ。
 もしも。
 三人が三人共、盛大な勘違いをしていたとしたら。
 亜梨子が、それを本気で“遊び”だと認識していたとしたら――。
 辻褄が、合ってしまう。
 この、何がいけないのかわからないというような顔で半裸になっている亜梨子にも、説明が付いてしまう。
 好きでやっているなら諦めもつく。好意でやっているなら、もっと自分を大切にしろと叱ることもできた。だが、本気でわかっていないなら、それは。
 性質が悪いというレベルを、超えている。
「あ、亜梨子。お前、この……遊び? の、こと、誰から聞いたんだ」
「友達だけど……それがどうかしたの?」
「……それって、男だよな?」
「ええ。だって、女の子同士じゃできないって言ってたし……違うの?」
 きょとんとする亜梨子を見て、腕から力が抜けた。
 本当に、知らないのか。




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