一之黒亜梨子。
 ホルス聖城学園中等部に通うお嬢様にして、虫憑きを捕獲・隔離するための政府機関、特別環境保全事務局――通称特環からイレギュラーとして目を付けられた一般人。今は亡き親友、花城摩理が残したモルフォチョウともども亜梨子を監視することが、現時点で最強の虫憑き“かっこう”の任務である。
 本来ならば監視者と監視対象は無関係を装う決まりがあるのだが、転入初日早々「しょうがなく雇ってやることになった使用人」として紹介されてしまったため、学園では住み込みで働いているという設定で通している。事実、監視という名目上で一之黒家に居候している以上、下手に無関係を装うよりは疑いを持たれずに済んだとも言えた。
 クラスでは“気安く話しやすい良いヤツ”で通っている大助に、屋敷と同じような態度で接してくることだけはやめてほしいところだが。
 むやみやたらに大きい態度が癇に障り、反射的に言い返してしまって注目を浴びたのも一度や二度ではない。ほんの少し向けられた疑惑の目が、いつ命取りになるともしれないのだ。
 少女には一刻も早く監視対象としての自覚を持ち、立場を弁え、ついでに行動と言動も改めてもらいたいと大助は――

「ねえ、ねえってば。大助、聞いてるの?」

 噂をすればなんとやら。
 授業が終わり、長い休憩時間に入ってもなお考え込んだ様子で机に座っている少年を見かねたのか、亜梨子が大助の顔を覗き込んだ。
 大助はそれをチラリと一瞥し、過剰にスキンシップを取ろうとするこの行動と言動を改めてもらいたいのだと息を吐いた。
 いくら住み込みで働いている使用人(という設定)であれど、学園に来てまで行動を共にすることもないだろう。距離が近すぎて、逆に不審だ。
 目立たず騒がず孤立せず。
 その三つさえ守っていけば、学園で過ごす上での問題は起こらないだろう。だからこそ、こうも亜梨子とばかり一緒にいることは問題なのだ。学園を一歩出れば、何をしでかすかわからない亜梨子からはそれこそ一瞬たりとも目が離せなくなる。なので、いくらクラスメートに遊びに誘われようが付き合うことができない。その結果受けることにるだろう芳しくない評価を考えると、どうしても休憩時間を使ってクラスメートとの仲も縮めておかなければならない。
 なにかにつけてグループを作りたがる女ほどではないにしろ、“普通の男子中学生の人間関係”というものもなかなかに面倒なものなのだ。
 続く任務と厄介事に少々疲れているのか、今日は周囲の流れに取り残されてしまったけれど。
 監視班でも、虫憑きでもなかった小学生時代の、悪い癖だ。
「今日はいつもより無口じゃない。……だいじょうぶ? どこか、具合でも悪いとか?」
「別に、何でもねえよ。で、何だ? なんか用事あったんだろ」
 空いていた前の席に座った亜梨子が、「あ、そうそう」と本来の目的を思い出したように口を開く。
「喉が乾いちゃったから、ジュース買ってきてほしいんだけど」
「ってなんでだよ! お前今体調の心配してただろ! 次の瞬間にパシろうとするって面の皮厚すぎだろ!」
 にっこり笑って告げられた言葉の理不尽さに、思わず立ち上がって叫んでしまった。クラス中の視線が集まったことで我に返り、ハッとして座り直す。
「くっ……どうしてお前はそう、人の神経を逆なでするのがうまいんだ……」
「何よ、ちょっと頼んだだけじゃない……お財布の中にカードしか入ってないから、私一人じゃ自販機使えないんだもの。大助なら小銭持ってるでしょう?」
 コイツ、未だに現金を持ち歩いていなかったのか。
 以前買い物に付き合わされた際、カードしか持ち歩いていないことは聞いていたが……一般庶民の出である大助には、到底理解できない金銭感覚だ。
 高級レストランでは一括で払えても、自販機でたった一本のジュースを買えないというのもどうかと思う。そう思って多少の小銭くらいは持ち歩いておけと言い聞かせてあったのだが、改善はされていなかったようだ。
「はあ……いくらかやるから、財布に入れとけよ。俺がいないときにまた喉渇いたりしたら困るだろ」
 言って、ジュース一本には多い小銭をいくらか渡す。
 亜梨子が初めてお小遣いをもらった子供のように、パアッと顔を綻ばせた。
「いいの?」
「ああ」
 普段は亜梨子が一括で払ってくれている分、大助のほうがもらっている。
 部屋に置かれたクローゼットに閉まってある、車が買える値段をしたスーツを思い出し、片手に小銭を握りしめて教室を飛び出していった亜梨子の背中を見送った。あれに比べれば、このくらい安いものだ。
「それにしても……」
 これじゃ、監視者でも使用人でもなく、保護者でもやっている気分だ。我ながら、あながち間違っていないかもしれないと思う。
「――くっすりやくん。一之黒さんと何話してたの?」
 なんだかな、と呟く大助の前。
 今さっきまで亜梨子が座っていた席にに、見覚えのある男子生徒が座る。
「御林くん」
 少年の幼い顔立ちと明るい笑みに、考えるまでもなく名前が出てきた。例のスーツを買うこととなった合コンに誘った張本人だ。金持ち特有の嫌味っぽい部分があるものの、あっけらかんとした人当たりのいい笑顔がそれを打ち消している。
 クラスでの評判も上々。仲良くしておくと後々楽なタイプだ。一度合コンの誘いにも乗っていることから、クラス内でもよく話す人間の一人だった。
「亜梨……一之黒さんが小銭持ってないって言うからさ、ジュース代渡してたんだ。カードしか持ってないなんて、ちょっとオレにはわかんない感覚っていうか、この学校に通ってる人たちはみんなそうなのかな」
「はは、そんなわけないじゃん。いくらパパにカードを渡されてるって言っても、現金だって持ち歩いてるって。みんながみんなそうだったら、学園の敷地内に自販機なんて置かないだろ?」
「それもそうだね」
 御林が亜梨子の出て行った扉を見て、「一之黒さんはなんていうか、世間ズレしてるから」と苦笑する。
「薬屋くんも大変だね、一之黒さんが彼女だと」
「……はあ?」
 何の脈絡もなく言われた言葉に優等生の仮面が剥がれ掛けてしまい、大助は慌てた。
 何がどうしてそうなった、と吐き捨てようとして口を押さえる。
「あれ、違った? いつも面倒見てるし、仲いいし、てっきりそうかと思ってたんだけど」
「いや、一応使用人だからさ……面倒見てるのも、それが理由っていうか……そんなに仲良さそうに見える?」
「うん。だっては薬屋くんって、一之黒さんといるときだけは普段と違う顔してるし。使用人なんて嘘で、許婚か何かかと疑ってたくらい」
「……」
 声もなく机に突っ伏し項垂れた。
 付き合っているなどととんでもない勘違いをされた挙句、使用人という設定まで疑われていたとは……。
 自分は、自分が思っているよりもずっと気を抜いていたらしい。
 確かに友達以上と言われてもおかしくない距離に見えていたのかもしれないが、それはあの少女が年頃の女の子とは思えないほど躊躇なく大助に近付いてくるからだ。技を掛けているときなど下着が見えるのもお構いなしだし、なるほど、客観的に見ればそれらの誤解を受けるのも必然と言えた。
 でも。
「でもなあ……」
 初めてのお使いとでも評したくなる先ほどの様子は、どう頑張っても小学生を相手にしているようにしか感じられないのだが。
 疑うことも知らず突っ込んでいく辺りを見ていても、精神的に子供に思える。
 そもそも大助はうるさい女が嫌いだ。
「そっか、そういう風に見られてたんだ……ちょっとショックっていうか、なんだろうこの虚無感……いくら顔が綺麗でも、毎朝プロレス技で起こしてくるような奴は勘弁……っていうか、オレが一之黒さんととか本当、ありえないから」
「ああっとごめん、そんなに機嫌悪くすんなって! 悪かったよ。付き合ってないならいいんだ、うん」
「? どういう意味?」
 どこかほっとした声音に顔を上げる。
 御林は言い難そうに数度口を開きかけては止め、を繰り返す。黙って待っていると、「……付き合ってないなら、忠告に教えとくべきだよな」と内緒話でもするかのように大助に顔を近づけてきた。
「いやさ、もし薬屋くんが一之黒さんと付き合ってたなら、嫌な気分になるだろうから言わないほうがいいと思ってたんだけど……えっと、結構有名な噂。薬屋くんは多分、知らないよね」
「噂?」
 聞いたこともなかったので、素直に首を傾げた。
 それを見て、御林が気まずそうに頷く。
「どこから話したらいいかな。僕、一之黒さんとは同じ小学校だったんだよ。一之黒さんってあんな性格でしょ? だからこんな噂も、誰も信じてなかったんだけどね……学校にいる間は誰かと話してても、放課後とか、休日に遊ぶような友達がいなかったのは事実だし。で、僕はたまたま見ちゃったから、事の真相も知ってるんだけど……」
 御林の話は要領を得ない。ブツ切れで、どこから話したらいいかわからずにスタート地点を決めかねているようだ。決して浅くない亜梨子との付き合いがある大助に対し、遠慮しているようでもある。
「変にもったいぶらなくてもいいから、直接言っちゃっていいよ。結局、その噂ってなんなの?」
 いつまでも進まない会話に苛立ちを覚えてきた大助は、御林を促した。
 亜梨子に立つ“悪い噂”というものが、大助には想像がつかない。
 いくら好みじゃないだ態度がでかいわと個人的な文句を撒き散らしても、彼女の行動が人を惹き付け、他人に支持されることであることくらいは大助にだってとっくに理解しているのだ。あの行動力と思い込みの激しさを考慮しても、暴力沙汰がいいところだろう。基本的に単純でお人好しな亜梨子のことだ、たかが知れている。
 そうやって――楽観視していた。

「誰とでも寝てた、って話」

「……え?」
 思考が止まる。
 何を言われたのか、理解できないうちに御林は先を語り始めて――ちょっと待ってくれと制止の言葉を口にする前に、続きを促したのが自分であったことを思い出す。
「それもさ、売春ですらないんだよ。本人も楽しんでて、言われれば金ももらわずにええどうぞって感じだったらしい。一之黒さんってクラスでも孤立……とはちょっと違うんだけど、こう……悪い意味で浮いててさ。もう精通きてたヤツとか、そいつらに誘われた中学の先輩とか、そういう女の子を狙ったヤツばっかり周りに集まってて。本人は“友達”とか言ってたけど、そんなわけないって見てる人全員わかってた。中学入ってからはそいつらも部活だなんだでバラけたみたいだし、一之黒さんも学校終わるとすぐどこか行ってたみたいだから、もう忘れてる人も多いだろうけど……なんかおかしなところもあるし、まだ気味悪がってる人も多いんだよ」
 一つの机を挟んで語られる御林の話を聞いているのは、大助ただ一人だった。他のクラスメートは各々好き勝手に長い休憩時間を過ごしており、目を向ける者もいない。話の中心となっている少女は、この教室にすらいなかった。
 ジュースを買うだけにしては長い時間を、戻ってきてはいない。
 非現実的な過去話。あまりの荒唐無稽さに笑い出してしまいそうなのに、シャツは汗でべったりと濡れ、唇はカサカサに乾いていた。冗談にしては悪質過ぎる。御林の顔は真剣で、後ろめたそうで、何より大助を心配しているようだった。
「事の真相を、知ってるって……どういう」
 たまたま見ちゃったから――。
 それは。
 つまり。
「……体育館の裏って、校舎や校庭からは死角になっててさ。そこに、知ってる人が数人集まってたんだ。で、なんだろうと思って覗いてみたら、服脱いでる一之黒さんの姿が見えたってわけ。身体弄られてたんだけど、レイプって感じでもないし……逆に、楽しい遊びでもしてるみたいに笑ってたんだよ」
 噂は聞いてたから、本当だったのかって見ないふりして帰ったよ。混ざりたいわけでもなかったし、一之黒さんが嫌がってないならどうしようもないし。
 そう告げた御林の顔は、嘘を言っているようには見えない。
 硬直し、まともに機能しなくなった脳は御林の言葉を否定していた。けれど、頭の片隅では「こんな冗談を言うメリットがない」と冷静に話を受け止め、判断しようとしている自分がいる。
 亜梨子が年頃の女の子とは思えないほど躊躇なく、大助に近付いてくる理由。
 下着が見えても動じていないのはどうしてだ?
 今、いつまでも教室に戻ってきていない彼女は、果たしてどこで何をしているのか。
 疑い始めてしまうと止まらなかった。違う、そんなわけがない、あの亜梨子に限って――心の中で何度も繰り返し否定の言葉を重ねても、否定できるだけの要素は欠片もないことに愕然とする。
「まあ、今は西園寺さんとか九条さんといるみたいだからね。友達できたんだと思って、安心したな」
 言われてみれば、亜梨子が仲良くしているクラスメートと言えばその二人しかいなかった。誰かいたかと思い浮かべてみても、“霞王”や“C”、“ねね”に“ころろ”といったこ最近出会った虫憑きだちの顔ばかりだ。唯一花城摩理が例外と言えば例外で、しかし彼女も中学に入ってから知り合ったと言っていたため小学校時代の噂を否定する要因には成りえない。
 ふと、いつか恵那に聞かされた亜梨子との出会いが思い出された。
 親友を亡くし、いくら話しかけられようと心を開こうとしなかったという、頑なに塞ぎこんだ一之黒亜梨子……。それを聞いたとき、大助は今の亜梨子からは想像もつかないなと思ったものだ。しかし、今なら御林の語った小学生時代に通じるものがあるのではないかと“繋がって”しまう。
 悪い意味で浮いていた――奇妙な“友人”だけを持つ、孤立した少女。
「薬屋くん」
「あ……ごめん、何?」
 長いこと考え込んでしまっていたのか、御林が大助を見ていることにも気がつかなかった。軽く首を振って、大助を蝕もうとしていた不安と疑念を振り払う。
「もし気になってたんだったら、一之黒さんはやめておいたほうがいいよ」
 僅かに嫌悪感の滲んだ、硬い声。
「だから、そんなんじゃ――」
「うん、わかった。……でもさ、薬屋くんっていいヤツだし、そういうことしてる人と付き合うのはもったいないよ。それだけ」
 悪い人間ではないのだろう。
 御林の言葉と表情、態度には、どれも常識的な貞操観念と大助というクラスメートに対しての気遣いが見て取れる。始め、亜梨子と親しげにしている大助に対し、この話をするべきかどうか悩んでいたことからもそれは伝わってきた。
 ただ親しいだけの使用人ならいい。問題は、ただ親しいだけの使用人ではなくなったとき――多かれ少なかれ、浅い深いの差はあれど、大助が傷を負うことになると彼なりの助言をしてくれているのだ。
 大助は全てを信じることも否定することもできず、曖昧に笑う。
「忠告として受け取っておくよ」
「それでいいや。また一緒に合コンいこうね」
「……それ、どうせオレがでしゃばらないからなんでしょ?」
 当たり! 淀んだ空気から一転、そう言って御林が明るく笑ったその瞬間、ジュースを両手に持った少女が教室に入ってきた。
 御林は気まずそうに大助の側から離れ、入れ換わりに少女が大助の隣へとやってくる。
「あなたの分まで買ってきてあげたのよ、感謝しなさい!」
「いや、それ元から俺の金だし」
「ありがたーく受け取りなさい」
 後頭部でまとめた長い髪が、快活そうに揺れた。
 それを見て大助は異常なまでに動悸が早くなり、胸が熱くなるのを感じた。
 御林の語った噂話が、脳裏をよぎる。
「……ずいぶん遅かったな。何してたんだよ」
「昔の友達と偶然会っちゃって、立ち話してたのよ」
「ふうん」
 ジュースのロゴを見つめて動こうとしない大助の顔に、ひやりと冷たい缶が押しつけられた。眉根を寄せて受け取ると、亜梨子が満足そうに笑う。
「遊びに誘われたんだけど、放課後は摩理の調査があるでしょう? だから、残念だけど断ってきたわ。だからね、大助」
 角度によって色を変える、大きな黒い瞳。
 穢れなき宝石のような、純真無垢の象徴とも思える澄んだ色。
 我知らず、その向こうに亜梨子の過去を見ようと真剣な顔で見つめ返してしまう。
「今日は絶対、調査を進展させましょうね!」
 意気込み、拳を握り締める亜梨子の姿は、どこか知らない女の子のようにも見えた。




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