ありす、と名前を呼ばれて目が覚めた。大きくて温かな手が自分の肩を揺すっている。誰だろうとは思わなかった。未だハッキリとしない微睡みの中でも、亜梨子は瞼を開いたその先にある整った顔立ちを鮮明に思い描くことができる。眠りについている亜梨子を起こすのは、いつだって彼だと決まっていたから。
「亜梨子、家に着いたぞ」
 日本人離れしたブラウンの瞳に、色素の薄い鮮やかな金髪。
 亜梨子の兄だと言われるよりも、童話に登場する王子様がそのまま出てきたのだと言われたほうがまだしも説得力があるだろう。家族として贔屓目に見ている部分はあるのかもしれないが、少なくとも亜梨子にはそう思えた。彼が一之黒家に訪れたばかりの頃は、こうして揺り起こされる度にお姫様気分を味わっていたものだ。少女らしく胸を高鳴らせ、時には寝たフリまでして兄がやって来るのを待っていた。
「寝るんなら部屋で寝ろよ。亜梨子が風邪を引いたら、ルイに怒られるのは僕なんだ」
「だって、車の中って寝心地がいいんだもの……大助は?」
「呆れて途中で降りた」
 大助、とは一ヶ月ほど前に亜梨子の通う中学校に転入して来た男の子のことだ。一見しただけでは忘れてしまいそうなほど平凡な容姿をしており、頬に貼った絆創膏が唯一の特徴と言えた。
 しかし、どこか兄であるカシュアを思い出すのだ。中肉中背の少年と、細身で引き締まった青年のどこが似ているのかと問われたところで答えられないのだけれど。
 だからだろうか。カシュアも大助を嫌ってはいないようで、最近では親しげに会話しているところもよく見かける。学園まで亜梨子の送り迎えにと走らせている車に乗り込み、そのまま一之黒家に遊びに来ることも少なくなかった。今日は、亜梨子が寝てしまったせいで帰ってしまったみたいだけれど。
「そう」
「そうって、それだけか? 怒ってはいなかったけど、明日謝っておいたほうがいいぞ」
「いいのよ」
「よくない」
「お兄様はどうしてそんなに、大助と私を……」
 言葉が切れる。亜梨子は沈んでしまいそうなほど柔らかい座席に身を任せながら、カシュアの瞳を陶然と見上げた。
「お兄様」
 大助のことはもういいでしょう、と呟いた亜梨子を、駄々っ子を前にしたような困り果てた笑みで見つめている兄。そんなカシュアの顔を見ているのは、大助がいなくなったことよりもずっと悲しくて胸が傷んだ。けれどきっと、カシュアはそれもわかっているのだろう。わかった上で、大助よりカシュアを優先している亜梨子を咎めている。
 兄離れしろと。
 暗にそう言っていることは、いくら鈍い亜梨子も察していた。
「お兄様、いつもみたいに起こして」
「亜梨子」
「嫌、ああしてくれないと起きないわ」
 本当に駄々っ子そのままになってしまった亜梨子を前に、カシュアは呆れているかもしれない。
「……まったく」いつまでも甘やかしていた僕とルイが悪いな、と嘆息しながらもその響きは穏やかなものだった。
 前髪が掻き上げられ、頑として動こうとしない少女の額に唇が押し付けられる。ちゅっという聞き逃してしまいそうな小さな音を目覚ましに、亜梨子はそっと瞼を開いた。
「いつまで経っても我が侭だな、僕のお姫様は」
 金色の粒とチョコレート色の瞳が柔らかに混じりあう。亜梨子まで溶かされてしまいそうな甘い顔。私の王子様。
 カシュアの手を取り、車を降りる。
 亜梨子はいつか、別の手を取ることになるのだろうか。大助の手を取っては、分かりにくく存在する温かさに兄を垣間見てしまうのではないだろうか。
 亜梨子が眠りに就いたその時、起こしてほしいのは兄である彼一人なのに。
「お兄様」
「ん?」
「大好きよ」
 カシュアが数回瞬いた。髪と同じ、金色の睫毛が揺れる様を夢心地に眺める。
「僕もだよ」
 額に唇の感触が蘇る。別の意味を持った同じ言葉に涙が滲み、欠伸のフリをして微笑み返した。
 亜梨子が望んでいるのは、親愛のキスなどではないのだ。





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