黒板を叩くチョークの音が無機質に響く。休憩時間には生徒の喧騒で満たされる教室も、授業中となれば言葉を発する者はいなかった。そんな中、机に突っ伏して穏やかな寝息を立てている少女が一人。
 亜梨子だ。大助は、呆れたように視線を黒板に戻した。教師の声を流し聞きつつ、ノートにペンを走らせる。
 ここのところ、少女はいつもあの調子だ。自宅や学校、電車や車の中など、場所を問わず眠ってばかりいる。初めのうちこそ大助も起こしてやっていたが、こうも続くとそれも疎かになっていた。
 それに、と再び肩に垂れたポニィテールを一瞥する。
 大助は、亜梨子が睡眠不足に陥っている理由も知っている。そのため、あまり眠りを妨げるのもどうかと躊躇ってしまうのだ。
 思えば、大助も十分な睡眠を取れていない。噛み殺しきれなかった欠伸が漏れ、教師に注意を飛ばされた。
 堂々と居眠りをしている少女は見過ごされ、欠伸をしただけの自分が非難される。この歳にして、早くも格差社会を痛感した。特環ですら一歩引かざるを得ないコネクションと権限を持つ一之黒の一人娘。しかし蓋を開けてみれば、ただの破天荒な世間知らずだ。
 大助には、彼女のやること成すこと全てに理解が及ばない。奇妙なほど発言権を持つ父親についても、宿主と共に消滅するはずの“虫”が亜梨子の元に残っている理由も、意味もなくでかい態度と自信はどこからきているものなのかも、それに――。
「…………」
 触れたら色を変えてしまいそうな、澄んだ黒い瞳が濡れて揺らめく様が思い起こされ、喉が詰まるような息苦しさを覚えた。
 掠れる声と、水を含んだ荒い息。畳に擦れて赤くなってしまった肌に、まとわりつく長い髪。
 瞼が重い。
 明日も、寝不足のまま学校に来る羽目になるのだろうか。そう思うと、気の重さまでもが大助の瞼にのし掛かった。



 亜梨子の様子がおかしくなったのは、魔法使いと呼ばれる虫憑きの死に直面してからのことだ。
 足の怪我が治っていないから、と嘘まで吐いて、モルフォチョウの調査に行かなくなった。ハルキヨ捜索も一時中断すると言ったきり、以前のように突拍子もなく揉め事に関わることもない。そして、大助が特環の任務に赴く際、連れていけと騒ぐ代わりに不気味なほど心配して送り出すようになった。
 何もしていないのに電池が消費してしまうほど頻繁にメールが届き、少しでも帰りが遅くなると何をしていたのかとものすごい剣幕で問い詰められる。掠り傷程度の怪我にも過剰なまでに不安がり、大丈夫なのと顔を真っ青にして大助につきまとう。見た目ほど酷くはないからと“ねね”の処置を受けず屋敷に戻ったときが、一番対処に困った覚えがあった。怒るでもなく腰を抜かしてわんわんと泣き始められてしまい、落ち着くまで数時間もの時間を要したのだ。
 思い出してみれば、寝不足が始まったのはあの日の夜からだったか。
 亜梨子が泣き止んだ頃には大助はへとへとに疲れきっていて、早く眠って身体を休めたくて仕方なく、あまりいいとは言えない態度でそそくさと自室へと戻った。それから布団に潜り、意識を閉ざそうとする直前のことだ。同じく自室に戻ったはずの亜梨子が、大助の部屋に入ってきたのは。
「大助」
「なんだよ……疲れてるんだから、寝かせろって」
「大助」
「怪我も寝れば治るし……」
「大助」
「お前も早く寝ろよ……」
 うつらうつら、畳を踏む少女の足音を聞きながら、夢うつつに返答したように思う。
 大助の横で腰を下ろした衣擦れの音だけは、今でも鮮明に思い出せる。そのあとに続く一言も。
「大助は、どこにもいかないわよね?」
 何と返事をしたのだったかは、覚えていない。
「どこにもいかないっていうなら――今日だけ、いっしょに寝て」
 瞼を開けた先に見えたのは、少女の手の甲に落ちた一滴の雫だった。
 言葉の意味を理解するより先に、うんざりした気持ちでもういい加減に泣き止めよと震える腕を掴んでいた気がする。
 嗚咽を漏らす唇に触れて、微睡みながら亜梨子が普段通りの笑顔に戻る方法を模索した。名前を呼べば、ぎこちなくも力を抜いてくれるということ。顔でも手でも身体でも、とにかく大助が触れてさえいれば大人しくなるということ。触れている場所が多ければ多いほど、込める力が強ければ強いほど、安心したように微笑むのだということ。
 布団に引きずり込み、朦朧とした意識のなかで得た情報はそんなことばかりだった。夢のなかにいるようで、現実味がなかった。次の日の朝、腕の中で眠る亜梨子を見て、ようやく自分がやったことを理解したくらいだ。
 急いで乱れた服を正してやり、大助が布団から抜け出したところで、亜梨子が目覚めたときなんて言ったらいいのだろうと頭を抱えていたのだが――
 予想に反して、亜梨子は大助を責めはしなかった。
 というのも、彼女にとって、責めなければならない自体がまるごとなかった出来事となっていたから――なのだが。
 訳がわからなそうに眉を潜めて、わたしどうして大助の部屋で寝てるのと首を傾げた亜梨子にとぼけている様子はなく、本気で何があったか覚えていないらしかった。
「なんだか、おかしな夢を見た気がするわ」
 その言葉は、あやふやで掴み所のなかった行為にひどくしっくりくるものだった。「俺も」大助は頷いて曖昧に笑った。
 だいすけ。その日の夜もまた、電気を消した少年の部屋に、涙混じりの声が響くことなどそのときは知らないままに。そしてまた、二十四時間後には「またおかしな夢を見たのよ」と呟く亜梨子が布団の中にいるのだ。
 日に日に眠気だけが蓄積されていく、毎日の始まり。悪夢の終わりは、訪れない。

「二重人格ってわけじゃ、ないみたいなんだけどな」
 嫌なことは忘れると言っても、限度があるだろう。
 それとも、こうやって続けているうちにいつか現実として受け止めるようになるのだろうか。わからない。大助は眠気を頭の隅に押しやりながら、ぐったりと弛緩しきった身体を綺麗にしてやる。
 中に溜まった白濁液を掻き出そうと指を突っ込み、掘り返すように抉っていると、亜梨子の身体がぶるりと震えた。顎が反り、はぁうぅぅとだらしない声が漏れる。
「ん……はぅ…………だい……すけ……大助……大助?」
 一瞬ギクリとしたが、まだ不安定な少女のほうのようだった。大助の思考をドロドロに融解させる、甘い声。
 ごぷっと音を立てて精液を吐き出させると、陶然した顔で息を吐いた。
「大助、わたし、私ね」
 股間を拭う。手をさ迷わせていたので、身を乗り出してやるとそのまま首に抱きつかれる。
「おかしな夢を見たわ」
 この言葉を、“この”状態の亜梨子が言うのは初めてだ。恐る恐る、抱き締め返す。
「こうやって、繋いでいた手が離されちゃったのよ……どうしてだったのかしら、大助はここにいるのに……こわくて、手を伸ばして引っ張ったら、また側にきてくれたけれど……変ね、夢の中での手はもっと小さくて、私と同じくらいだったのに……」
「眠いなら、もう一度寝てていいぞ」
「ええ……そうね、すごく眠いわ」
「おやすみ、亜梨子」
「私が寝るまで、こうしていてくれる……?」
「ああ」
「嬉しいわ」
 ふわふわとした髪を撫でる。
 亜梨子は大助の胸に額を擦らせ、大人しく瞼を閉じた。
「おやすみなさい、大助」
 また明日。暗くてよく見えなかったが、最後にそう唇が動いた気がした。大助は、もう一度、おやすみと小さく呟いて亜梨子の身体を抱き締める。
 寝て起きるまでの数時間の辛抱だった。朝になれば、彼女はいつもの亜梨子に戻っている。不思議そうに首を捻らせ、陰りのない笑みを浮かべるのだろう。
 核心的な何かから目を反らしているようなざわつき。夢は夢でしかない。そのはずだ。夢が現実を侵すことなどありはしない。悪夢は覚めることができる。すぐそばについていてやれれば、覚ましてやることができる。
 どちらが夢か、わからなくさえならなければ。
 噛み殺しきれない欠伸が漏れた。
 眠い。いくら寝ても、眠気が取れない。寝れば、この夢も覚めるだろう。少女を抱き、布団に沈む。
 重力がなくなるような感覚を最後に、意識が遠くなっていく。その一瞬、夢は眠りに落ちたその先に見るものじゃなかっただろうかとふと思った。

「なんだか最近、おかしな夢を見るのよね――」
 首を捻る亜梨子の姿が、途切れた意識の先に垣間見えた。
 どこか、現実味のない場所で。
 俺はあえて、それに気付かないフリをして。






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