「だから」
 なんでここまで言ってわかんないんだよ。そう言われてもそんな顔をされても、亜梨子にわかるはずもない。目の前の少年はいつもよりずっと苛立っているように見えて、普段からそっけない口調はよりそっけない言い方を極めているようにしか聞こえないのだ。それなのに顔は真っ赤で真剣な瞳は亜梨子を捕らえて離さない。態度と仕草と言動と表情、その全てがちぐはぐで、噛み合っていない。
 彼が何を考えているかなどわかるはずもなかった。わからないようにしていたのは彼の方じゃないか、とも思う。
 いつだって亜梨子には隠し事ばかりして。距離をとって。一線を引いて。境界線を明示して。踏み込ませないで。亜梨子をかわしてなんでもないような素振りばっかりしてみせて。お決まりのように言っていた。「これが俺の任務なんだよ」。
 信じられない。
 頑なに、口癖のように、防御のようにその立ち位置を譲らなかった彼の方こそが、何もかもを飛び越して二人の関係性を崩し去ってしまうなんて。
「俺はお前が――――なんだって」
 視界が揺れる。
 もしかしたら、彼との関係性を今まで考えてこなかったのは自分の方なのかもしれないと亜梨子は思った。
 同居人で使用人。友人にして相棒。今は亡き親友と同じ虫憑きであり、特別環境保全事務局から派遣されてきた局員。彼に対する亜梨子の認識といったらこんなもので、他に何かあるとすれば、彼がよく言う台詞で亜梨子自身はあまりよく思っていない「虫憑きと一般人」という差別とも取れる言い分だけだった。しかし、もうそれだけだなんて言葉は出てこなかった。思いしらされて打ちのめされた。彼が見ないフリをしていた何か。亜梨子は気がついていなかった何か。それが今は丸裸にされて、二人の間に生温く横たわっていた。
 虫憑きと一般人という前に二人はただの人間で。少しばかりいいとこの学校に通うただの中学生で。ただの少年と少女だった。
 理解した途端目の前の少年はいつもよりずっと頼り無さげに見えて、少し拗ねたような表情は普段よりもずっと素直に感じられた。
 今、亜梨子の前にいるのは特環の局員でも悪魔と恐れられる虫憑きでも優等生の転校生でもない。
 薬屋大助という名の、少し無愛想でひねくれた一人の男の子だ。
 何か言おうとしては片っ端から消えていった。混乱した頭が、今この場で大助にかける言葉を探すことを拒否していた。どうすることもできず、黙り込む。もはや自分がどんな顔をしているのかもわからない。
 大助がそんな亜梨子を見て、気まずいとも吹っ切れたとも取れる妙な顔をする。しいて言うなら、「やっぱりな」「ざまあみろ」とでも言うような。

「――――バカ亜梨子」

 フン、と鼻を鳴らして顔を反らした大助が、硬直したままの亜梨子の横を通り過ぎる。




 …………一睡もできなかった。
 障子から薄ぼんやりと入り込んでくる日の光と雀の鳴き声に、少女が顔をしかめた。寝返りを打ち、顔の半分辺りまで布団を被って瞼を閉じる。抗い難い睡魔が襲ってくるが、それに身を委ねる直前で少年の声に叩き起こされてしまう。閉じていた瞼を開き、上半身を起こすと鳴る前に目覚ましをオフにした。
 室内には亜梨子一人しかいない。それもそのはず、亜梨子を寝かせてくれない少年の声は、昨日から延々と脳内で繰り返されているものである。当の本人である少年は、今頃宛がわれた一室で深い眠りについていることだろう。亜梨子が眠れないことなど、お構い無しに。
 それを思うとあまりの悔しさに再び布団に潜りたくなったが、今しがたアラーム機能を止めた時計を見て諦めた。
 針は真っ直ぐ垂直。朝の六時を指している。早々に着替えて朝稽古に向かわなければ、厳しい指南役に自室まで怒られに来られてしまう。
 もう一度布団に入ったところで結局眠れないのだろうことはわかっていたが、それでも温かく柔らかい布団には後ろ髪を引かれた。肩を落とし、僅かな抵抗として枕に顔を埋める。もう何も考えたくなかった。


「いたたたた……今日も手加減なしにやってくれたわね」
 ぶちぶちと文句を言いながら廊下を歩く一之黒亜梨子の歩みは重かった。普段の倍以上に打たれた気がする。身体の節々が痛み、心ここにあらずという様子でも容赦なく稽古をつけてきた師範代への恨み辛みがつい口を出た。
 やられっぱなしだったため、綺麗に結えた長い髪もぐしゃぐしゃだ。胴着も着崩れているかもしれない。慣れない徹夜に隈が目立っていそうで、鏡で確認したかった。そういえば、昨夜は学校の支度もしていない。
 欠伸を噛み殺しながら洗面所に向かうと、亜梨子が手をかける前に扉が開いた。
「あ――」
「……」
 眠そうだった少女の瞳が、見開かれる。
 内側から扉を開いた少年は、顔を洗ったときに失敗したのか前髪が濡れていた。特徴のない容姿に、頬に貼られた絆創膏。薬屋大助。同居人であり、一晩中亜梨子を悩ませた張本人。
 いつもならば亜梨子が起こしに行くまで寝ているのだが、今日は妙に早い。心の準備も何もなく不意打ちに出会ってしまったことで、亜梨子は軽くパニックを起こしていた。
 文字通り夜が明けるまで巡らせていた思考は、なんの役にもたちはしなかった。頭が真っ白になり、今までどうやって接してきたかすら思い出せない。
 対して、大助の側はなんの感慨も気になることもないように、いつも通りの無愛想な顔だ。ここまでのパニックに陥っていなければ彼が意識的にそうしていて、無愛想に務めていることにも気が付けたかもしれないが、今の亜梨子にそんな余裕はなかった。何故自分だけ慌てていて彼にだけは余裕があるのか。釈然としないものを感じてムッとする。
 亜梨子は、こんなに、意識して仕方ないのに。
「お……おはよう」
「……」
 なんとか挨拶を絞り出したというのに、大助は無言のままだった。何とか言いなさいよと思うものの、たったそれだけが言葉にならない。
 ジッと見られて、思わず瞳を反らしてしまう。どんな顔をすればいいのかわからなかった。昨日のようなことを言われた場合、どんな言葉を返すのが正解なのかわからなかった。普通に接していいのかどうか、判断に苦しむ。その「普通」を見失っているのだから、どうしようもないけれど。
 静寂が続く中、はあ、と大助が溜め息を漏らした。その足が一歩踏み込み、亜梨子との距離を縮める。亜梨子はびくりと半歩下がって身構えた。
 そんな少女を、少年が一瞥し――
「ひっでえ顔」
「なっ――」
 挨拶代わりの第一声。
 昨日と同じに亜梨子の横を通り過ぎ、背を向けた大助をわなわなと睨み付けた。
 髪は乱れたままだし、隈は酷いだろうし、欠伸は連発していたし、徹夜だからそりゃあひどい顔をしているのかもしれないけれど、その態度はあんまりじゃないかしら!?
 亜梨子は一夜明けてもなお、大助のことだけを考え続けていたというのに――。

「な、なっ、なによそれ! 昨日は私のこと好きだなんて言ったくせに!!」

 持て余していた苛立ち全てをバネにした叫びは、長い廊下を響き渡り庭にまで響いた。
「なっ――」今度は大助が言葉を失う番だった。驚きに目を見開き、続けて叫ぼうと開かれた亜梨子の口を即座に両手で塞いでくる。
「ば、バカッ! 何叫んでんだバカ亜梨子!」
「んむっ! んんんうー! んー!」
「信じらんねえことしやがって……どうしてお前はそう後先考えられないんだ!」
「んぐっ、んむっ……んうう」
 息苦しさに呻きながら大助を睨んでいると、ハッとしたように離された。先ほどまでは余裕綽々に見えたその顔は、今は耳まで赤く染まって狼狽え度マックスといった感じだ。
 キョロキョロと周囲を見渡しているのは、使用人たちに聞かれていないかを心配しているらしい。口を解放されても、亜梨子は黙ったままそんな大助の様子を眺めていた。
「大助」
「な……なんだよ」
「あなたって……」
 至近距離で見つめあう。
 大助がたじろいだ。その様子が少しだけ可愛く思えて、亜梨子は日常茶飯事に彼にちょっかいをかける恵那の気持ちがわかってしまった。
「返事とか、聞こうと思わないの?」
 純粋な疑問だった。一般的に考えれば、好きだと言ったら付き合ってくださいが付属品として付いてきて、それに対する言葉を受け取った側が考えればいいのではないのか。それなのに彼は付属品を渡してこなかった。それを貰えなければ、亜梨子はなんと反応したものか判断がつかないままではないか。
「別に」
 どうやら不親切な使用であって不良品ではないらしかった。別に。別にと言われてもはいそうですかでは終わらせられない。望むにしろ望まないにしろ、絶対的に変化せざるを得ない言葉を彼は口にしたのだ。
 亜梨子はそれを意識して、彼が意識していたことも理解した。
 知ってしまった以上引き返せない。元の場所には戻れない。知らない方がいい、お前は知らなくていい、知る必要なんかない、そうやって一人だけ取り残されるのはもう真っ平だ。そんなの、亜梨子の気持ちは置いてきぼりだ。
「本当に素直じゃないわよね」
「なんだよ、それ」
「昨日は素直だったのに」
「なってねー」
 少しむくれた。
「ちょっとは素直になりなさいよ」
「素直にお前の顔がひどかったんだよ」
「あなたが寝かせてくれなかったのがいけないのよ」
「その言い方、誤解されるからやめろ」
「?」
 今度は照れた。どこに照れる要素があったのかわからず、亜梨子は首を傾げる。数秒考えて、ようやくわかった。頬が紅潮して、目が合うと一斉に視線を反らして固まり合う。今まででは考えられないやりとりだ。
 それも当然なのかもしれない。
 これまで考えてこなかった関係性が生まれる可能性に、気付いてしまったのだから。
 ごく自然に感じることができたことを、彼を真似して意地悪く遠回りに、しかし自分らしい直球さで口にした。
「誤解じゃなくなるんだから、いいじゃない」
 亜梨子の上擦った呟きに、大助が「え?」と一瞬何を言われたのかわからないという間抜けな顔で瞬いた。
 監視対象でもなく同居人でもなく、友人でも相棒でもはたまたご主人様でもなく、亜梨子は恥ずかしそうにはにかんで笑う。自分らしくないけれど年頃の少女としてはらしいだろうと結論付ける。

 ここまで言ってもわからないの? と、今度は亜梨子が言う番だ。





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