彼に呼び出されたとき、大助はとうとうこの悪夢に終わりが訪れたことを覚悟した。嘘ばかりを連ねた報告書を定期的に中央本部へと提出し、彼女の友人や屋敷の使用人には口止めさせてなんとか夢を続かせてきたけれど、大助自身それがいつまでも続くと思ってはいなかった。 元からいつ終わりがきてもおかしくなかった。夢とはレム睡眠時に見るものであって、深い眠りにあるときに見れるものではない。浅い微睡みに包まれているその身をほんの少し揺すってやっただけで、すぐに掻き消えてしまうような儚いものだ。現実と眠りの境に位置しているような、柔らかで崩れやすい場所でだけ見ていられる幸せな世界。 浸っていられる時間なんて限られていた。 駄々をこねてあと五分だけと布団にしがみついていた彼女を起こすのは、確かに彼が適任だろう。 呼び出しに素直に応じた大助が連れてこられたのは、貸し切りにされた喫茶店だった。すぐに二人分の紅茶が出され、向かいに座った三十代半ばの男性がそれに口を付ける。大助はカップを手に取らないまま、彼が口を開くのを待った。 「……薬屋大助くん、だったな」 彼女そっくりな黒い瞳で見詰められ、ドキリとする。 一之黒涙守。大助が監視している少女、一之黒亜梨子のれっきとした父親である。 彼に会うのは、今日が初めてではなかった。亜梨子をの監視に就く際、娘の側に行く人間がどんな人物か会っておきたいと一度だけ特別環境保全事務局まで挨拶に来たのだ。 その日も難しい顔をしていたが、今日はそれ以上に感じる。 それもそうだろう。 彼が亜梨子の――娘の現状に気付いたのなら、難しい顔をしているで済まされるとは思えなかった。 「悪いな、いきなり呼び出して。娘のことで、少し聞きたいことがある」 大助は膝の上に置いた拳をぐっと握ると、後ろめたく、ともすれば逃げ出したくなる気持ちを抑えつけて頷いた。 「……どこから聞いたらいいかな。亜梨子は今、学校にも行かず、それどころか君以外の人間とは話もせずに部屋に引きこもっている、というような話を聞いてね。少し普通じゃない状態になっている、とも。それは本当なのか?」 聞きたいことがあると言いながら、何と聞いたらいいか、涙守自身よくわかっていないと言いたげな口振り。あまりにも真実味が無さすぎて、詳細を聞く前からして情報をうまく整理できていないのかもしれない。 しかし、今涙守が口にしたことが全てだと言うのだから滑稽だ。大助も、どこから話したらいいかわからず再び黙って頷くしかなかった。 「全てお話します」 花城摩理と亜梨子のした答え合わせ。その結果。襲い来る悲しみから逃避した亜梨子の弱さ。今にも壊れて正気を失ってしまいそうだった少女を、無理矢理に繋ぎ止めたという現状。 話していて、腐った果実のような爛熟した匂いがここまで漂ってくるような錯覚を覚えた。鼻奥にまとわりついて離れない。こびりついて拭いきれない、一度口にしたら忘れることのできない罪の味。 堕ちきった少女との、溶けてしまいそうなほど甘い行為を思い出し、口が止まった。 大助は自分の犯した、最も許され難い最低な行為を省かず涙守に話したら、どうなるのだろう。 仮にも一号指定の虫憑きだ。いくら特環にコネクションを持つ大富豪と言えども、社会的にも肉体的にも大助を抹殺することは不可能だろう。 そうされるだけのことをしたと理解はしているが、いくら当の本人である大助が贖罪を望んだところで、特環が“かっこう”を失うようなことを許すとは考えづらい。 それでも一発殴られさえすれば、涙守の気は晴れるだろうか。大助の罪悪感もなくなるだろうか。亜梨子は昔の姿に戻らないというのに。 何も、どうにもなりはしない。言うだけ無駄だ、と大助は目を伏せた。 「ここに来るのに、亜梨子はどうしてきた?」 聞き終え、沈黙を破ったのは涙守の側だ。 感情で語ることを抑えたような質問は、しかし大助の胸を抉り取った。 話さないと決めたばかりなのに、机に額を擦り付けて謝りたくなる後ろめたさと恐ろしさ。 涙子は、暗に大助がここに来ることで亜梨子が泣き喚いてしがみついて離そうとしなかったんじゃないかと聞いている。その通りだ。だから大助は、時間まで半ば無理矢理に亜梨子を大人しくさせる方法をとってきた。 抱き締めて、口付けて、肌を触れ合わせて、一つになって、絶対にいなくならないと安心させることで眠りにつかせ、そっと部屋から抜け出したのだ。もしかしたら、今頃は起き出して大助がいなくなっていることに気付いているかもしれないが。 亜梨子から、不安を取り除いてやろうと。 亜梨子に、何かしてやろうと思う度に、あんなことを繰り返して――どこに向かっているのだろう? 大助と亜梨子は、どこで道を見失ってしまったのだろう――。 答えのないその問いが、幾度となく頭を過る。 行き場もなければ、もう、帰り道すらわからない。 迷子の集まりからもはぐれて、根拠もない慰めの言葉を言い合いながら手を握りあっている、ふたりぼっち。 「…………今は、泣き疲れて眠ってます」 嘘は言っていない。 涙子も納得したようだ。 「もうひとつ、聞かせてくれるか? 亜梨子の現状を特環に報告していないのは、何故なのか」 「……」 「俺は、古い使用人から内密にとこの話を聞いたんだ。それなのに、こうしている今でさえ特環からは何の情報も入ってこない。意図的に、特環に亜梨子の情報が入らないよう塞き止めている人間がいる」 そこまで言い、大助を見る青年の顔がふと緩んだ。 「監視任務をしている君は、適役だ。だろ?」 大助は手付かずだった冷めた紅茶を飲み干すと、相手の立場を忘れて「ああ」と肩を竦めた。 同学年と話しているような気安さがそうさせた。涙子も気にはしていない様子だ。ショックを受けてはいるが、確かな安全や僅かな救いを知っているとでも言うような苦笑。 「俺の娘に惚れたか? 美人だからな」 「別に、そんなんじゃ…………ただ」 「ただ?」 「今度は俺が、助けてやりたい。それに、これは俺のせいでもある」 「“虫”を引き留めていたのは、彼女――花城摩理と、亜梨子自身だろう。答えあわせをしたのだって、亜梨子たちの意思だ」 大助が気に病むことはない。大助には、大切に育てていただろう愛娘がこんなことになってまで他人を――それもその愛娘を監視していた虫憑きを――気にかけることができる涙子の心情が計り知れない。 「それでもです。俺がもっと早くに亜梨子のことを理解できていたら、こんなことにはならなかった」 ふたりぼっちになる前に、何か対策を打てていたかもしれないのに。 「俺がいなくなったら、亜梨子は一人になる。亜梨子の側に、今度こそ本当に誰もいなくなる。そんなことになったら、亜梨子は今度こそ……」 続きは言葉にできなかった。 ……できるはずもない。 「モルフォ蝶が消えたことを報告したら、俺は監視任務から外される。だから、特環に報告するつもりは、ない」 「俺が報告したら、終わりだけどな」 「……」 「そんな顔するなよ、報告なんかしないさ。……何でって顔だな」 「ああ」 特環に連れ戻される覚悟で呼び出しに応じたのだ。監視というだけで娘のプライバシーを覗かれているような不快感を覚えているだろうし、年頃の男を娘と同居させるなんて、父親にしてみれば顔を真っ赤にして怒り狂ってもおかしくない行為のはずである。 しかも、そんな男が娘の唯一の支えになっているなど――もっと罵倒され、殴られてもいいのではないかと、大助でさえ思う。 なのに彼がここまで落ち着いている理由とは、なんなのか。 「覚えがあるんだ。大切な人がいなくなってしまった、世界の終わりのような喪失感に」 涙子は、怒るわけでも、涙を流すわけでもなく、ただ独白を続けている。 懐かしむような、それでいて諦めたような、どこか遠い場所を見詰めた顔で。 「亜梨子は……美人なところは母親にそっくりだが、性格は俺に似てしまった」 今の亜梨子の気持ちが、手に取るようにわかってしまう。そう、自嘲とも取れる響きで呟かれた。 「もう、君しか見えていないんだろう?」 「……はい」 「それなら、君に託すしかあるまい。俺も特環に気付かれるまでの時間を長引かせることくらいはできる」 「亜梨子が引きこもるのを、協力するって?」 「娘が少しでも安らぎに満ちた生活ができるなら、全力で支援するさ。それがいつまで続くかわからなくてもな」 少年の皮肉を聞き流し、涙子が立ち上がった。 「大助」 まるで旧友に語りかけているかのように名前を呼ばれる。大助は視線を上げて涙子を見据えた。 「壊れてしまいそうだった亜梨子を、無理矢理に繋ぎ止めたと言ったな。花城摩理以外の名前を呼ばなくなり、まともに話もできなかった状況で――どうやって亜梨子の視界に入ることに成功したんだ?」 それが、今度こそ本当に、最後の質問なのだろう。 これまで僅かも見せなかった、中学二年生という幼い少女の父親としての大助への憎悪が、垣間見えた。 身体に染み込んだ、爛熟した果実の匂い。それがまた、大助の鼻について―― 「……すまんな。亜梨子を、よろしく頼む」 彼が何に謝ったのか、大助にはわからない。 謝らなければならないのは、きっと最初から最後まで大助の方だった。 こんな男に娘を頼むと言わなければならない父親の心境とは、いったいどれほどのものなのか。 娘がどんな方法で安らぎを感じているのか察した上で、言うしかならない行き止まりとは、どれほど救いのない道なのだろうか。 「俺は……」 大助の言葉が続く前に、涙子は店を出ていった。 一人残された席に座ったまま、空のカップに口をつける。癒えない喉の渇きを感じたまま、奥歯を噛んだ。 果たして涙子がいたとして、自分は何を言えただろう。 亜梨子を前にしたら、また同じことを繰り返すしかないのだろう自分なんかが。 きっと彼女は、寂しがって泣いている。早く側にいってやらねばと思った。門を潜って襖を開いて、暗い部屋にボロボロの姿でいる少女を抱き締めてやることが自分にできる最低限だ。 例え根拠もない慰めの言葉を言い合い、手を握りあっているだけだとしても、不安は薄まり転んでも再び立ち上がることができるのだ。それは、ひとりぼっちより、ずっと心強い。 もはや、悪夢でも構わなかった。 夢を見続けていられるなら、それ以上のことなどないはずだ。今までだって、大助はずっとそうやって戦い抜いてきたのだから。 生きてさえいれば、いつかきっと――――なんとかなるのだと。 |