……いや、気が付いたところで態度は変わらないかもしれないな、と思う。 昔からそうだった。 亜梨子は、大助を異性として見ていない。それ以上に、男と女の違いがよくわかっていないのかもしれなかった。 そんな彼女に、この状況に何か思えという方が無茶なのだろう。 変に動揺していた自分が馬鹿らしくなり、チャンネルを無意味に回す。ドラマに時代劇、バラエティにニュース……どれも興味が持てず、雑音にしか思えないキャスターの声が耳についた。 「……シャワー浴びてくる。テレビと雑誌くらいしかないけど、好きに寛いでていいぞ」 リモコンを投げ出し、立ち上がる。 「なっ、奴隷が一番風呂ですって? 身分を弁えなさいよ」 「弁えるのはお前だっての。ここは俺の家だ」 「私のものは私のもの、貴方のものも私のものよ」 屁理屈にもならない自分勝手な発言を堂々と言ってのける尊大な態度は、相変わらずだ。 言ってろ、と頭を軽く叩いて、気まずさを感じていた自分自身から逃げるようにシャワールームに向かう。背中に怒鳴り声が飛んだが、無視を決め込むと「フンッ」と鼻を鳴らす声が聞こえて静かになった。 シャワーを浴びて戻れば、おかしな気も晴れるだろう。 リビングから響くテレビの音を聞きながら、シャツを脱ぎ捨てる。次にズボンのベルトに手をかけ、着替えを持って来忘れたことに気が付いた。 寝室まで取りに行こうとドアに手をかけ、シャツを着直そうか一瞬悩む。だがすぐに、下は穿いてるしとリビングに戻った。 覗くと、先ほどまでソファに座っていたはずの亜梨子がテレビの前に立ち、何かを眺めているのが目に入る。 「……?」 何をしているのだろうか。 彼女の興味を惹くようなものがあったかどうか思い出そうと試みても、該当するものは出てこない。 ただ、液晶のテレビを置く、ラックがあるだけで―― 「…………げっ!?」 ハッと目を見開き、大助が叫ぶ。 蛙が潰れたような声に反応し、びくりと肩を震わせて――写真立てを持った亜梨子が、振り向いた。 「ねぇ、この写真ってあの時の…………って、あ、貴方ね、何で上半身裸で――」 足音も荒く歩み寄る。 僅かに顔を上気させ、後退る亜梨子。構わずその手に持った写真立てを奪おうと腕を伸ばすが、小柄な身体を逆手に潜り抜けられた。くっ、と大助が歯噛みする。 迂闊だった。常に伏せていたため、片付けるのをすっかり忘れていた。 あの写真を見られたらおしまいだ。いや、すでに見られてはいるだろうが、あれが少女の手元にあったら何を言われ、いつまでからかわれることになるのか想像に難くない。絶対に取り返さなければ。 「お前それ、こっちに寄越せ!」 「な、何よいきなり! 別に怒るようなものじゃないでしょう?」 「いいから渡せって言ってんだ!」 「痛っ! 離しなさいよバカ大助! 減るものじゃないんだから、ちょっとくらい見たっていいじゃないの!」 「バカはお前だバカ亜梨子! そんなもん恥ずかしくて見せられるわけが――」 腕を掴み、揉み合いになる。抵抗した亜梨子の爪が大助の素肌を引っ掻き、怯んだ隙を見計らって腹部に蹴りを入れられる。写真立てを持った亜梨子の手が、天に掲げるように伸ばされ後ろにかわした。このっ、と大助もまた負けじと腕を伸ばす。そして、その最大限にまで伸ばされた指先が写真立ての縁に触る。 取った! 勝利を確信し、ホッとしたのも束の間――唐突に、亜梨子の身体が傾いた。 「きゃっ……!?」 大助の体重がかかり、バランスが取れないままフローリングに足を滑らせたのだ。驚きに見開かれた瞳がさっと恐怖に染まる。掴んでいた写真立てが床に落ち、中に飾られている写真が露になった。 ホルス聖城学園の制服を着た、中学生ほどの男女だ。 小柄な女の子が少年の首に手をまわし、ヴイサインをしている。両隣には笑顔と困惑顔という対照的な二人の少女の姿もあった。その真ん中では、頬に絆創膏を貼った少年がどこか諦めたような表情で笑っている。 知らない者が見ても、一目で友人同士だとわかる、楽しげな写真―― 「亜梨子っ!」 咄嗟に、伸ばしていた腕で亜梨子の頭を抱いた。折り重なって倒れ込む。 直後、想像以上の衝撃が肘と膝を襲った。まさか骨は折れていないだろうが、思いきりぶつけた箇所が鈍い痛みに包まれ、痺れている。 庇わなければ、この痛みを受けたのは少女の頭だったろう。あったかもしれない未来を想像し、ゾッとした。 「……いつまで抱きしめてるのよ、離れなさい」 腕の中の亜梨子が苦しげに呻いた。 人より小柄な身体を下敷きにしてしまっていることに気付き、がばりと身を起こした。腕立て伏せをするような形で、亜梨子を見下ろす。 「バカ大助」 「……悪い」 いくら見られたくなかったとはいえ、ムキになりすぎた。 膨れっ面で責められ、素直に謝る。すると、亜梨子が何かを懐かしむように目を細めて微笑んだ。 「こういうこと、前にもあったわよね。あの時も、貴方が私を助けて覆い被さってたわ」 「ああ……あったな、そんなことも」 亜梨子に出会うきっかけとなった、最初の事件。 騒ぎを起こした張本人である播本潤の“虫”を倒すべく、ビルから飛び降りるというとんでもない無茶をしでかしたのだ。落下する寸前に“虫”と同化した大助が衝撃を防ぎ、庇わなければ、彼女は今頃花城摩理と同じ場所にいただろう。 確かに、あの時亜梨子を助けたときもこんな体勢だった。 亜梨子が大助に馬乗りになることは日常茶飯事だった記憶があるが、それが逆になるのは今で二度目だ。 不思議な気分で、床に寝ている亜梨子を眺めた。真っ直ぐに大助を見詰めていた黒い瞳と視線が絡み、沈黙が流れる。 視線を外すことも、身動きすることもないまま一秒二秒と過ぎていく。 「……今の写真はだな、」 「貴方は、変わったわね」 思い切って沈黙を破った大助の声に、亜梨子の声が被った。 変わった。 中学生の大助を写真で見て、改めて成長したと感じたと言いたいのだろうか。 「そりゃ、あれから何年経ったと――」 何年経ったと思ってんだ。 そう言いかけ、自分がどれだけ酷いことを言おうとしているかに気付く。 大助にとっては三年以上も前の出来事でも、亜梨子にとってはそうじゃない。 亜梨子の体感で言えば、俺たちが出会ったのは、まだ一年前の出来事でしかないのだ。 成長していない、幼い姿―― 「顔つきも大人っぽくなったし、背だってすごく伸びてるわ。声が低くなってるし、昔はなかった傷がたくさんついてる」 「……亜梨子」 「さっき、貴方が病室に来る前、検査室で愛理衣に会ったの。やっぱりすごく成長してて、もう色々教えてあげる必要なんてないのかもしれないと思ったわ。今年、小学校を卒業するんですって。私と同じ、ホルス聖城学園の中等部に行くんだって言ってたわ」 「亜梨子」 「テレビでだけど、お父様の姿も見たのよ。こんなこと言ったらいけないけれど、少し老けたんじゃないかしら……」 亜梨子が笑おうとして、失敗する。 小さな身体が微かに震えていることに、大助はその時になってようやく気付いた。箍が外れたように話続けているのは、軽いパニックに陥っているのかもしれない。 大助の呼びかけも聞こえていないフリをして、溜め込んでいた感情全てを吐き出している。 「恵那や多賀子は、どれくらい変わったの? “霞王”は? 寧子さんは? ハルキヨは? ……私だけが、変わってない」 知っているものが知らないものに変化している恐怖に、自分一人だけが世界に取り残されている不安に、怯えている。 その恐ろしさは、大助も、他の人間にも理解できない。時間の流れに置いていかれた、亜梨子にしか持ち得ない心細さ。 「いつも通りに貴方を殴ったつもりでも、うまくいかない。身長が変わっているんだもの、考えてみれば当然よね。でも、私にとっては当然じゃないのよ……」 考えてみれば、当たり前だ。 いくら覚悟をしていたところで、彼女が中学生の少女であることには変わりない。不安を感じないわけがないのだ。 何より大助は、彼女の――一之黒亜梨子の、根本的な脆弱性を知っていた。 視覚と記憶の差が、亜梨子を苦しめている。たった一つでも亜梨子の記憶と違わないものがあれば少しは安心できるのかもしれなかったが、果たしてそんなものはあるのだろうか、と大助は唇を噛む。 「ねぇ大助、私――」 とても見知った少女とは思えないか弱い声は、誰に助けを求めたらいいかわからないでいるような心許ない響きをしていた。 黒く澄んだ瞳の中に映る、成長した自分の姿を大助は見る。 何もかもが変わっていると、亜梨子は言った。 形あるものは決して時間の流れに逆らえないという、永遠なんてものはどこにも存在しないという、見本のように成長した身体。 「……違う」 ドクン、と心臓が跳ねた。 確かに、骨格から変わった身体はもう中学生には見えない。声だって、ずっと低くなっているかもしれない。 けれど、大助は大助だ。 別の人間になったわけじゃない。 亜梨子との思い出を、受け取った優しさを、関わり生まれた感情を、なくしてしまったわけじゃない。 心の奥底に眠っていた何かが目を覚ましたような、奇妙な感覚が大助を突き動かす。 亜梨子が大助の隣からいなくなったその時、手放したはずの想い。 それは、本当は手放してなんかいなかった。彼女同様、二年間以上もの間を眠っていただけで―― 大助の中に、変わらず存在し続けていた。 「亜梨子。あの写真を、どうして俺がまだ持っていたか教えてやろうか」 「え?」 「特環の局員は、姿形を残す写真の類は破棄することが決まりだって、教えたことがあったよな」 「え、ええ。だから、あの写真もすぐに捨てるって言ってたのも覚えてるわ」 「ああ、そう言った。それでもな、あの写真だけは捨てられなかった。なんでか、わかるか?」 少女達と一緒に映っている写真を、女々しく飾っていた理由。修学旅行や、学園の行事で撮った写真は捨てられても、あの写真だけは特別で例外だった。 それは何故か? 「変わらないものが、あるんだ」 今、恐怖に身を震わせる少女が何より欲しているもの。 それを見せたい。簡単に形にできるものだったなら、簡単に証明できるものだったら、どんなに良かっただろう。 あやふやで、曖昧で、不確かなそれを亜梨子に教えてやることは、幽霊の存在を信じさせるくらいに難しい。 それでも、気づかせてやりたい。 変わらないものもあるんだってことを教えてやりたい。 他の誰でもない、亜梨子自身が大助の中に生ませたものなのだから。 大助の顔には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。 いつだったか、同じ笑みを浮かべたことがあった気がして、記憶を探る。思い至ると、再び顔が緩んだ。 思い出すのは、太陽に灼かれた砂より温もりに満ちた、彼女の手の感触だ。 友達だと言い切られた、あの会話。相棒でもいいわよ、と言った亜梨子に対し、友達でも相棒でも、お前が選んだほうになってやるよと笑いながら答えた自分。 ああ――やっぱり、何も変わってなんかいない。 「俺はずっと、お前に伝えたいことがあったんだ」 言って、一度退かした体重をかけて、抱き締めた。 そうすることが、当たり前のように感じられたのだ。 多分大助はずっと、こうして亜梨子を抱き締めてみたかった。 「だ、大助……?」 返事をする代わりに、腕に力を込める。 二人はしばらくの間、黙っていた。洋服越しに触れる少女の薄い胸から、早鐘を打つ鼓動が伝わる。大助の鼓動もまた、少女に伝わっているのだろう。 ここにある、と伝えるように。 変わらないものは、一番近くに実在しているんだってことを、確認させるように。 次へ |