プロローグ 0.00 The others


 純白の林檎の樹が、枝を伸ばした。
 銀色に輝きながら脈動する繭に巻き付くと、それを呑み込み――
 するすると樹に戻っていく枝の間。忽然と姿を消した繭の中から、一人の少女が現れた。
 林檎の樹に、真っ白な実が育つ。大量の栄養を吸い取るように膨らんでいった果実の成長が止まると、眠っている少女の肩がぴくりと動いた。
 閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
 むくりと身体を起こすと、床に散らばっていた長い髪が顔に垂れた。
 そして。いかにも寝起きといった様子の少女を前に、指一本動かせないでいる俺を見て――

「――おはよう」

 にっこりと微笑んだ。

 最後に彼女を見た、流星群の夜。
 かつてと何一つ変わらぬ、その姿で。




 1.00 大助 Part.1


 真昼とは違い、夕方の総合病院は本来あるべき静寂を取り戻していた。
 ちょうど面会時間が終了したのか、薬屋大助が入口をくぐると入れ替わりに数人の男女が出ていった。それからまた数名の男女と、家族らしき子供が手を繋いで歩いていく。
 患者の喧騒の代わりとばかりに聞こえてくる看護師たちの話し声を耳に入れながら、受付を通り過ぎた。待合室を抜け、エレベーターに乗る。
 ――桜架市内にある総合病院。一見してどこにでもある建物に見えるこの場所は、その実西棟だけは事情が異なっていた。
 虫憑きを秘密裏に捕獲、隔離することを目的とした機関、特別環境保全事務局。略称で特環と呼ばれる組織の一部、東中央支部の任務による負傷者を治療するための入院施設である。
 装って作られてはいるものの、入口から廊下、窓ガラスや壁に至るまで、よく見ると一般的な施設とは言い難い。本当かどうか知らないが、今大助が乗っているエレベーターも何かあればすぐにガスが出る仕組みになっていると聞いたことがある。
 何とはなしに天井を見上げていると、エレベーターは何事もなく三階で止まり、扉が開いた。
「柊子さん」
 開いていく扉の先で佇んでいた人物と目が合った。
 先が細くなったヒールに、スーツ。整った顔立ちをしているが、化粧気のない顔に傾いてかけられている眼鏡と後ろ髪の寝癖がそれを台無しにしている。諸々のマイナスっぷりが目立ち、残念感漂う二十代前半の女性。大助もよく見知った人物だ。
「大助さんじゃないですか」
 東中央支部長代理、五郎丸柊子――れっきとした、大助の上司である。
「いまちょうど、大助さんに電話しようと思ったところだったんですよぉ。手間が省けちゃいましたね」
「そうだったんだ。ってことは、検査とかは全部終わったの?」
「はい。もうまったく、全然問題なしです。念のため“ねね”さんに来てもらおうかなぁなんて思ってたんですけど、その必要もなさそうで……私より元気がいいくらいかもしれません。たはは」
 気の抜けた笑いを漏らす上司に、大助は苦笑する。
「彼女、ここで戦ってくれると言ってくださいまして。やる気満々で私たちも願ったり叶ったりというか、そのおかげで今日は拘束も何もなしにしてあげられるみたいです。二年間も眠り続けていたわけですから、本当なら詩歌さんのように擬似的な生活空間に入って頂いて、データを取った上で生活に戻ってもらうべきなんですが……まあこんな状況ですし。あ、ここですよ。亜梨子さーん、入りますねぇ」
 廊下の突き当たりまで歩いていくと、柊子が一室を指差した。能天気な声を上げながら、早くも慣れ親しんだ様子で柊子が室内に入る。促され、大助もまた中に入った。
「電話してくるって言ってたのに、ずいぶん早かったのね……あら?」
「元気そうだな」
 ベッドに座った少女が振り向いた。全開に開放した窓から入り込む風に、カーテンと長い髪が揺れている。
 どうやら、窓から見える街並みを眺めていたようだ。声をかけると、乗り出していた身を戻して驚いたように名前を呼んだ。
「大助」
 聞き慣れた声は、けれど懐かしさが拭えない。大助が監視任務に就いていた頃と寸分違わぬ彼女の姿は、眠っていた二年という月日をどこかに置き忘れてきてしまったかのようだった。
 一之黒亜梨子。
 モルフォ蝶と、その宿主である花城摩理を巡った一連の事件。ひとまずの終結を迎えた中学三年の夏、決して忘れることのできない流星群の夜――自らの“虫”の力で不死の虫憑きと共に姿を消した、五人目の一号指定。
 五感の一つを代償に、他人の“虫”を預かるという能力を持つ南金山叶音の助力を得て、大助はクマムシを解き放さず亜梨子を目覚めさせることに成功した。
 二体の“虫”を預かってもらった後、クマムシだけをそのままに、モルフォ蝶のみを亜梨子の身体へ戻させる。そして“虫”の力を失った宿主を叩くまでの間、カノンにクマムシを預かっていてもらうという寸法だ。
 カノンには東中央支部の管轄で訓練を続けさせてはいるが、それでもクマムシほど強大な“虫”を預かっていたことはない。果たして全てがうまくいくのかどうか、彼の精神力次第である。
 危険な賭けだ。
 これが失敗した時、失うものは大きい。今までやってきたこと全てが意味を失い、無駄になる。何もかも間違っていたと思う日が、くるのかもしれない。
 けれど、取り戻したものもあるのだ。
 何があっても走って行こうと、いつか必ず取り戻そうと決意したもの。
 それが、腕を伸ばせば簡単に触れることのできる距離に存在している。
「半日ぶりね。貴方にここまで連れてこられてから、ずっと検査に問診にって大変だったんだから」
「仕方ないだろ? “虫”の力で眠り続けてたなんて、前代未聞なんだよ。本当なら、数日間ここに拘束されててもおかしくないんだからな」
「す、数日間? あれだけのデータを取らされたのに、まだ検査し足りないって言うの? “虫”を出したり注射を打ったり、もう息が詰まりそうだわ……!」
 よほど人間的とは程遠い扱いを受けたのだろう。どうにかしなさいよと亜梨子に泣きそうな顔で詰め寄られ、大助が嘆息する。
「だから、言っただろ。どうにかするもなにも、特別処置として今日は帰れるんだよ。……そうだよね、柊子さん?」
「はい。あ、でもその、流石にご自宅に戻れるというわけではないのですが……このまま病室や実験室に拘束なんてことはありませんから、安心してください。東中央支部局員用の宿舎がありますから、今日はそちらで過ごされたらどうでしょう?」
「宿舎? 大助もそこで暮らしてるの?」
「いや、俺は違う。桜架市内にあるいくつかのマンションは特環の管理下にあって、希望すれば一室支給されるんだ」
 首を傾げる亜梨子に、大助が答える。
「亜梨子さんもそうしますか? 手続きがありますから、明日からになってしまいますけど……」
「そうね……せっかくだから、そうしてもらおうかしら。でも明日からってことは、今日はなんとかしないといけないのよね……」
「……お前に一人暮らしなんてできるのか? 家事も掃除もお手伝いさんに任せっきりだったくせに、マンション丸ごと火事になっても知らねーぞ」
「亜梨子パンチ!」
「ほ、本当のこと言っただけだろうが!」
 ピンポイントに鳩尾を狙われると思いきや、狙いがずれたようだ。亜梨子の目が一瞬驚きに見開かれ、次の瞬間不満そうに眉を吊り上げた。
 じりじりと睨み合っていると、一歩離れた場所で柊子が笑うのが分かった。
「ごめんなさい。仲がいいんですね」
 どこか安心した様子で、にっこりと笑う。
 第三者に指摘されたことにより、二人の間に妙な気恥ずかしさが混じった。だが、柊子にしてみればそれすらも微笑ましいようだ。
「宿舎もお貸しできますけど、今夜は大助さんのところに遊びに行ってもいいんじゃないですか? 数年ぶりともなれば、積もる話もあるでしょうし」
 名案とばかりに手を合わせる柊子。
 それに亜梨子は、乗り気な様子で頷いた。
「そうね、奴隷の生活をご主人様がチェックするのもいいかもしれないわ」
「まあ、別にいいけどな。お前にはこれから戦う上で、今の特環の状況や他のレジスタンスの説明もしないといけないだろうし……」
「決まりね」
「じゃあ柊子さん、亜梨子は連れていくから。仕事頑張って」
「あ、はぁい……って、え? あ、あれ? ほ、本当に大助さんの部屋に行くんですか? ……えぇ?」
 提案した本人が何か戸惑った声でぶつぶつと呟いていたが、最後まで聞くことなくドアを閉めてしまった。
 ……?
 なんだったのだろう。赤くなったり青くなったり、忙しなく顔色を変えていたように見えたのだが。
「……ま、いいか」
 やっと開放されるわ、と声に疲労を滲ませて亜梨子が身体を伸ばす。
 軽やかに跳ねるポニィテールが視界に入り、ああ、と思う。
 二年前の景色だ。
 中学二年から三年夏までの一年間。大助の視界にはいつも、軽やかに跳ねるポニィテールがあった。
 大助が小さく笑う。歩調を早め、先立って廊下を歩く少女の横に並んだ。




 1.01 The others


「あ、はぁい……って、え? あ、あれ? ほ、本当に大助さんの部屋に行くんですか? ……えぇ?」
 一人戸惑う柊子を残して、病室のドアが閉まる。
 動揺し、眼鏡のズレを直そうと片手を持ち上げる。その拍子に、両手で抱き抱えていた書類を床にバラまいてしまった。
「あっ、あぁっ」
 慌てて拾う柊子の手が、一枚の書類でふと止まる。
 生き生きとした黒い瞳に、快活そうな印象を与える引き締まった笑顔。14、5歳に見える少女の写真が貼られ、その横に名前から家族の詳細までびっしりと記載されている。今大助と共に病室から出ていった、一之黒亜梨子の特環データだ。
「例の、大助さんのお友達……かぁ」
 いつか見た、大助の部屋に飾られていた写真を思い出す。
 宝箱に鍵をかけ、そっと閉まっておくように伏せられていた写真立て。
 家族の写真すら見当たることのない、必要最低限の家具しか置いていない殺風景な部屋で、あの写真だけが薬屋大助という少年の感情を垣間見せていた。
 彼にとって、それほどまでに大切な人物なのだろう。
 最強の虫憑きと謳われる少年の人間らしい部分をほんの少しだけ覗き見たような気がする。
「それにしても、大助さんのお部屋にお泊まりなんて……」
 顔を赤らめ、柊子がポツリと呟いた。
「すごく仲が良さそうだったし、もしかして恋人なんですかねぇ」




 1.02 大助 Part.2


 ――よく考えてみると、少女を大助の部屋に泊めるというのは非常に不味いのではないだろうか?
 大助がそのことに気付いたのは、リビングに入るなり「殺風景な部屋ね」と亜梨子が言い放った瞬間だった。
 それほど狭くはないといっても、たかがマンションだ。ベッドは一つしかないし、来客用の布団なんてものは存在しているはずもない。
 それなのに、なぜ自分は軽々しく宿泊を許可したのか――
 考えて、呻く。
 以前、一年以上もの間一之黒家で同居生活を送っていたため、同じ家に寝泊まりすることをおかしなことだと思う認識が、大助の頭の中から抜け落ちていたのだ。
 どこぞの旅館のような広さを誇る、あの屋敷ならば寝食を共にしても確かに問題ないだろう。けれど、あの屋敷の十分の一にも満たないこのマンションに女の子を一人泊めるというのは、あまりにも意味が違いすぎる。
 今更ながらことの状況を正しく認識し、病室から出る寸前、柊子さんが慌てていた理由を理解した。
「そりゃ、驚きもするか……」
「え? 何?」
 こめかみを揉み、一人ごちる。物珍しそうにリビングをうろうろしていた亜梨子が、話しかけられたと勘違いしたのか大助を見た。
「いや、なんでもねぇよ」
 一度でも気付いてしまえば、意識せざるを得なくなる。癖と同じだ。
 視線を逸らしてテレビの電源を入れると、亜梨子が大助の隣に座った。二人分の体重を受けて、ソファが沈む。
 動けば肩が触れるだろう、数センチの距離。異性の部屋に泊まるということがどういうことなのかにまだ気が付いていないからか、亜梨子が大助を意識する様子は見られない。

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