――合格。

 もう力の入らなくなった手でそれだけ打ち込むと、血だまりのできた地面にそっと置いた。
 彼は、自分のことを探すだろう。そして、この携帯電話を見つけてくれるはずだ。
 誉め言葉の一つもなく、別れの言葉もない。ただ一言、ボクは不真面目でどうしようもなかった弟子に師匠としての二文字を捧げよう。
 塩原鯱人の“最終テスト”。
 内容、“補習”。
 ――合格。
「……やれやれ、補習までしてようやく合格とは――本当に、どうしようもない生徒だった」
 腹部を貫いている金属の棒を、無理矢理引き抜く。この場所から離れるのに、こんなものをぶらさげていたままでは邪魔で邪魔で仕方がない。
 棒を引き抜いたことで留まることを知らなくなった大量の血液が戌子の下半身を汚し、瓦礫の血だまりを淡々と広げていく。
「次の街では、もっと優秀で可愛げのある生徒がいいな。手のかかる子ほど可愛いと言うが、そんな生徒は一人で十分なのだ」
 真面目で、努力家で、才能があって――まだ見ぬ教え子達の存在を夢想していた戌子の脳裏に、くせっ毛の少女の姿が過ぎる。
 この街にいた、二組の師弟。
 もう一人のボクは、いい弟子を持ったようだね――微笑し、戌子はふらふらと歩き始める。
 行く宛はない。
 “スカウト”の旅は、もうおしまいだ。
 ベスパに乗って海沿いの道を疾走しながら吸い込んだ潮風は気持ちが良かったな、と頼りない足取りでそこに向かうことを決める。
 バス停のそばに、公衆電話があったはずだ。
 “スカウト”の旅という、新たな道を示してくれた人物に感謝の礼を捧げよう。
 それで今度こそ本当にボクの任務は完了し、虫憑きになった瞬間から始まった狂戦士の戦いは終わりになる。
「思えば虫憑きになったとき、ボクは新しく生まれたようなものなのかもしれないね……」
 家族が殺される以前、戌子はどこにでもいる幸せな少女だった。
 友人と、家族と、当たり前の日常を謳歌していただろう。
 けれど、精神までもを“虫”に喰われて消耗し続けている戌子にはもう、幼かった当時の記憶を思い出すことができない。 家族の顔すら曖昧になっている中、自分が虫憑きになったときの記憶だけは鮮明に、最も古い出来事として思い出すことができる。
 思い出す。思い出す。人生で最悪の瞬間を。網膜にこびりつき、忘れることのできない瞬間を。怒りと憎しみが悲しみを超え、狂戦士が生まれ落ちたあの瞬間を。
 ああ、とうめき声ともため息とも取れる掠れた声を洩らす。口元を伝った血を、手の甲で拭った。

 ――最初にこの手に抱いたのは憎しみだった。

 自分のものではなくなってしまったような重い身体を引き摺り、未だ戦闘の音が止まないドームを後にした。
 一般人にこの怪我を見られたらたちまち騒ぎになってしまうだろう。そうなれば、救急車や警察を呼ばれ特環に連絡がいくのも時間の問題である。
 夜の闇で多少は人にまぎれることも可能だろうが、戌子はなるべく人目のつかない通りを選び国道に出た。
 今時珍しいコインを用いるタイプの公衆電話に覚えている番号を入れると、数回のコールののち留守番電話に切り替わる。公衆電話を照らす電灯が瞬き、晴れやかな笑みを浮かべた戌子を照らし出した。

「もしもし、戌子です――」

 戦場でなければ生きていくことのできない狂戦士に、新たな生きる理由を与えてくれた存在に感謝を。
 貴方の妹さんは、ボクの訓練に泣き事一つ言わずに頑張ってくれました。彼女はボクが思うより、もっと強くなることでしょう。
 彼女だけではない。今や戌子より上の号指定を与えられた教え子達もいるのだ。
 中央本部の“C”や“ねね”のような珍しい能力はまだまだ伸び代がある。“霞王”は攻撃より防御の方が強い自分の能力を生かしきれていないが、人一倍“戦う”ことに貪欲だ。
 西中央支部の“さくら”はハルキヨに喧嘩を売って生き残ったという噂がまことしやかに囁かれており、開発班にいるのが惜しいほどの人材だと戌子は思っている。
 “疫神”や“兜”は戌子が“かっこう”と共に戦場を渡り歩いていた時からの古株で、今も順調に昇り詰めているのだろう。
 そして、塩原鯱人。
 傷付き、痛みを感じながらも戦場へ赴いた不真面目な生徒の姿を思い出し、血の付着した唇を舐めた。
 不安はない。
 最後まで見守りこそしなかったものの、戌子は鯱人の勝利を確信していた。
 彼ならば、大丈夫だ。
 キミたちなら、大丈夫だ。
 最低最悪の願いから始まった、獅子堂戌子という虫憑きの人生。
 なのに、今の戌子はこうして満ち足りた笑みを浮かべていられることができるのだ。

 ……最初にこの手に抱いたのは、憎しみだった。
 それでも、最期にこの手に残されたものは――

 獅子堂戌子の“スカウト”の旅――完了。

 どこかで、聞いたことのある声が聞こえた気がした。
 誰だったのか、もう思い出せないけれど――
 それは多分、ボクの愛しい世界の一部だ。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -