罪ばかりの蜜
「消えて、ない…」
最近、ため息をつく瞬間が決まっている。
夜、お風呂に入る前と、入った後。
朝、パジャマから私服に着替えるとき。
首や鎖骨など至る所についた、少し紫がかった痕。ちょっと薄くなってきたな、とは思いながらも、2、3日じゃ完全には消えてくれなかった。
この痕を見るたびに、あの時の光景を思い出してしまうから勘弁してほしい。
『来い』
『逃げるな、女…』
『こっちを向け…っ、』
白い肌。角ばった指先。大きな手。
あの綺麗な体が、私の至る所に触れた。
今でもあの時の行為を鮮明に覚えている。熱にやられた頭を振り乱しながらあの方に溺れたのだ。
それから、昨日のキス。
「…なんてことを、…」
あの方はシルヴァ家という名前を聞くだけで慄いてしまうほどの高位な王族。しかも魔法騎士団の団長ときた。かくいう私は恵外界出身のいわば下民。しかも現在は居酒屋のバイトでギリギリ生計を立てている。
身分も職業も何もかも違うのだ。
そんな方に無理やりされたとはいえ、体の関係を持ってしまったなんて。
「……夢だ、あれはきっと夢だ、」
何かの間違いに決まっている。
そんな私の逃避思考を現実へと持ってくるのが、この首や鎖骨など至る所についた痕というわけで。
「はぁ…、」
たぶん、気の迷いなんだと思う。
決してナイスバディじゃないどちらかというと貧相な体で、しかも下民。
あの人がお酒に弱そうなのは長年の勘で感じたけれど、あの微量すぎるアルコールで酔ったのかと思うとあの人はアルコール消毒すら出来ないのでは、と思ってしまう。
つまり、彼が酔っていたのかもしれないという考えはあまり正しくはなさそうで、だからこその、本当の気まぐれだったのかもしれない。
「また来るって、…なに、…」
口止めしにきたんじゃなかったのか。穢されたと慰謝料でも取りに来たのかすら思ったのに、彼の方は全く反対の言葉を私に残していった。
忘れるななんて、あんなキスをされたら、忘れられるわけがないのに。
言葉も声も吐息も何もかも忘れられないでいるのをあの方はきっと知らないのだろうけど。
彼の方といたら、私が私でなくなってしまう。どうか、もう来ないでほしいと思わざるを得ない。
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カランカラン。
店のドアが開くたび、私の体はビクッと跳ねる。
いつ、あの方がくるかわからないから。
「**ちゃん、なんだか大魔王でも待ってるみたいだね」
「っえ、!そ、そそそそんなことないですよ、!!」
おじいちゃんマスターにまで心配されるほど、私は戸惑っていた。とは言え仮にもし来たとして、私に逃げ場はないのだけれど。
「**ちゃんー、こっち注文とって〜」
「あ、はいっ、ただいま!」
だめだだめだ、今は仕事中。集中しないと。集中集ちゅ、
カランカラン。
「いいいいっらっしゃいませぇっ!!」
「**ちゃん、今日なんだか変だよ?」
「きっ、気のせいです!」
だから、本当に、もう、あの方のせいだ…っ!
「ご注文を確認しますね、柚子ハイボールがお一つ、生中がお二つ、軟骨の唐揚げとカマンベールチーズがおひとつでよろしかったでしょうか?」
「はい」
かしこまりました、とおきまりのセリフを言ってからキッチンに向かった。伝票を見せて、「マスター」と声をかけた瞬間、カランカランとドアが開いた音がした。
「いらっしゃいま、せ……」
「……」
神様仏様、いったい私がなにをした。
たった一人、お店に入った瞬間店の空気がガラリと変わる。
それもそのはず、この店には似つかわしくない高貴な格好でしかもあの存在感。ざわざわとお客さんたちが噂しているのが聞こえる。王族の、シルヴァ家だと。
「**ちゃん、案内してあげて」
「っあ、は、はいっ、」
どく、どく、と近づくたびに心臓が鳴った。
じっと見つめられる視線から逃げようと足元を見たが、ずっとそうすることができるはずもなく。
「かっ、カウンターとテーブル、どちらにいたしますか、?」
「…カウンターでいい」
「かしこまりました、お席にご案内します」
声が震える。じっと見つめられているのがわかる。
やはり顔なんか見れずに、視線を伏せたり泳がしたりととても失礼な態度を取ってしまう。
こちらへ、と椅子を引いた。そのあとに普段の癖で、パッと顔を上げてしまったのが間違いだった。
「ーーっ、」
真っ直ぐ、私を射抜くような視線。
その目がどんな感情を持っているのか全くわからず、ただ体が震えた。
「…前と同じやつを」
「へ……?」
「注文だ」
「…っ、あ、はいっ、かしこまりましたっ、」
前?なに飲んでたっけ。だめだ、作り方も材料も覚えてるはずなのに名前が出て来ない。緊張で頭が働かない。
だめだ、だめだだめだ。
「っえ、と…」
「…ベリーニだ」
「っあ、は、はいっ、ベリーニおひとつでよろしいでしょうか?」
「あぁ」
「かしこまりました、少々お待ちください」
もうこっちはパニックで泣きそうだというのに、また同じようにじ、と見つめてくるからたまったものじゃない。
その視線から、逃げられないことを知っているのに。
ぺこりと頭を下げてから早々にマスターの元に向かった。もう本当に、勘弁してほしい。
「ドリンク作ります」
「それじゃ、頼んだよ、**ちゃん」
さっき注文された生中二つとハイボールを先に入れ、お通しを持って先に運んだ。王族とはいえ、順番は守らなければならないから。
再びキッチンに戻り、あの方のドリンク用のグラスに手を伸ばした。
お酒が苦手なのはなんとなく理解しているから、アルコールの量を少し変えなければならない。
テキパキと周りにある道具や材料を目分量でグラスに注いでかき混ぜた。
前作った時よりも何倍も緊張する。カタカタと震える手に頑張れと奮い立たせ、いつもの何倍もの速さで作り上げた。
あぁ、作り終わってしまった…。
(…がんばれ、わたし。)
コースターとドリンクを引っ掴んで、もうヤケクソだ、とあの方の席に向かった。どこを見ているかわからなかったが、わたしが来ていることには気づいていそうな感じがした。
「…お待たせしました、こちらベリーニでございます」
ちら、と一瞬、わたしを見た、気がした。当の私は視線を完全にドリンクに向けているが、それでもなんとなくわかった。
震える手でコースターを下敷きに、グラスをゆっくり置いた。
緊張と震えでこぼしてしまいそうになるのを必死に我慢する。
トン、
グラスが無事コースターの上に乗り、安定したのを確認して、ほっと息をついた。
それも、つかの間の安心で。
「今日は、」
「っ!?」
グラスを掴んでいる手に、そっと手が重ねられた。
固まる私をよそに、ゆっくりと耳元に近づいたこの方は、私にしか聞こえない声で吐息交じりに囁いた。
「今日はいつ、終わる」
ぞく、と体が震える。
重ねられた手と、吐息を感じた耳が異常なまでに熱を持った。
「っぁ、…」
「早く言え、**」
する、と甲を撫でる指先。
卑怯だ、ずるい、これは…だめだ、
手に感じるくすぐったい指先も、鼓膜を震わす低い声も、私をかき乱すには充分すぎた。
「っ、11時、です…ッ」
「…そうか」
お願いですから待たないでください、そう言おうと顔を上げたのが間違い。
満足したように口角を上げる表情があまりにも色っぽくて、あの夜に見せた表情と酷似していた。
ぎゅうぎゅうと心臓を鷲掴みされたような気分で、それでいてゾクゾクと背中が震える。
この人は、私をどうしたいんだ。
わからない。何一つとしてわからない。
遊ばれてるのか、ただの気まぐれなのか、それとも………。
「っ、失礼します…っ」
顔が熱い。
心臓が暴れて、自分では制御できない。
手が震えて、うまく息ができない。
私が、私じゃないみたい。
一層の事、蔑んだ視線で酷いことをしてくれれば、少しはこの気持ちに踏ん切りがつけることができるかもしれないのに。
罪ばかりの蜜
視線一つで狂わされる。