呼吸し始め音の群れ


朝風呂を済ませてから(無理やり入らされた)ペラリペラリと無言で本を捲るノゼル様の隣でぼーっとする私。
今日は休みだ、なんて言っていたにもかかわらず、ノゼル様の読んでいるものは、魔法の歴史に関する本、らしい。面白いですか?と聞けば、あぁ、と短い返事が返ってきた。


(……暇だ)


普段は今の時間はお店で掃除をしているだろう。それから仕込みを手伝って、開店に向けて準備をしている時間。だからこそなのか、今このなにもすることがない状態が暇で仕方がない。
かと言って、それをノゼル様に訴えたところで何かすることがあるなんてないだろうけど。(そもそも訴える勇気がない)


「ふぅ…」


今頃、お店はどうなっているだろうか。お母さんは無事だろうか。幸運にも、昨日の暴動は王都内だけで起こったらしいので、ど田舎を極める私の地元にはなにも起こっていない、はず。


(…帰りたい、)


暇だけじゃなくて、純粋にみんなが心配だ。だから本当は今すぐにでも帰りたいんだけど…、


(……なぜか100%断られる自信がある…)


横暴の王様だから、きっと何かと理由をつけて私をここに残すだろう。彼の強引さに勝てる人はきっとあの魔法帝くらいだろうか。

指先を絡めて、ぐっ、と伸びをした。
この落ち着かない部屋で、落ち着かない人と一緒にいて、何もすることがない。こんな苦痛なことはない。
早く帰りたいし、それができないのならなにかしたい。
どうしたものか、と足を抱えた。


「…何か言いたそうだな」
「っえ、?」


抱えた腕をパッと離して顔を上げれば、本を片手に私に視線を向けるノゼル様。交わった視線にびっくりして、一瞬思考が停止する。


「えっと…何か、とは…?」
「……来い」
「……?」


本を片手に、椅子からベッドに移動したノゼル様。
よくわからなかったけど、来いと言われたのなら行かなければ。そう思って立ち上がり、のろのろとノゼル様の正面に立った。


「あ、あの、」
「遅い」
「っわ、!?」


手首を引っ張られてバランスを崩した。どん、とぶつかった先にはプライドの塊横暴大魔王が。
私のせいじゃないけど、やばい、怒られる、と恐怖で身体中の血の気がサッと引いた。

じ、と私の目を見るノゼル様。かなりの至近距離で見つめられているが、恥ずかしさよりも恐怖心が勝っている。冷めた目がまた恐ろしい。


「……」
「……あの、」
「なんだ」
「…この体勢の意味は…?」


なんの感情も見せずにノゼル様はなにも言わぬまま私を持ち上げては足の間に座らせた。そしてそのまま何事もなかったかのように私の前に本を配置しては本を読み始めた。

あまりに自然な動きだったから拒否することができなかったが、よくよく考えればものすごい体勢だ。


「…何か、不満か?」
「いや、あの…この体勢、」
「嫌なのか?」


嫌なのか、と聞かれると返答に困った。
前ならストレートに嫌ですと答えれたはずだけど、なぜかそう答えることができなかった。
少し冷房が効きすぎているからだろうか、熱すぎないノゼル様の体温が少しばかり心地いいとさえ思えてくる。


「…そんな、ことは…ないです、…」


あぁ、なんて返事をしているんだ。嘘でも嫌だと言って仕舞えばいいのに。ドク、ドク、とゆっくり心臓が脈打つ。ふわりと漂ってくるフローラルな香りは花を見つけた蜜蜂のような気分を味あわせてくる。なんというか、もっと吸い寄せられたい。


「…貴様は、よくわからないやつだな」
「……ノゼル様も、です…」


外から日の光がやんわりと差し込んでくる。お天気なこのゆったりと流れる休日に、ベッドの上で二人密着して本を読むのが、なんというか、その、…付き合っている男女のお家デートのような気がしてくすぐったい。


「…難しい本ですね」
「……貴様は、本を読んだりするのか?」
「あまりしないです。たまにマスターの持ってる料理本を眺めるくらいです」
「じゃあ休日は何をしているんだ?」
「んー…お散歩、ですかね」


耳のすぐ横で声が出されるからわずかな振動に胸の高鳴りが強くなっていく。低い声が鼓膜から脳みそに直接伝わってくるみたいで、体の奥から熱が湧き出るようだった。熱い、脳が溶けてしまいそう。


「散歩して何になる」
「楽しいですよ。近所の子供達に会ったり、初めて見るお花や動物を見つけたり、いろんな発見があります」
「…貴様らしいな」
「そうですかね」


そういえば、こんな風にまともな会話はいつぶりだろうか。…いや、もしかしたら初めてかもしれない。いつも何かと会話がうまくいかないから。


「……**、」
「ッ…、はい、」


突如呟かれた名前。

ドキ、と心臓が一気に速度を上げた。声の低さに本当に脳みそが溶かされたみたいに何も考えられなくなって、思わずノゼル様がいない方へと首を回し、心なしか距離をとる。
するとノゼル様は本をベッドの上に置き、私の肩口へと顎を乗せて腕を腹部へと回した。


「なぜそちらを向く」
「っ、ち、かい、からですッ…」
「今更だろう」


そう、今更なのはわかっている。でも突然甘い雰囲気を漂わせてきたノゼル様に混乱して、胸のドキドキが激しくなっていった。
もぞもぞと動いたかと思えば、猫のように私に擦り寄ってくる仕草で髪の毛が首にかかる。くすぐったくてぐっと体に力を込めた。でも脳が甘い刺激にクラクラした。


「ノゼル、さま、っ」
「なんだ」
「くすぐったい、です…」
「我慢しろ」
「そんな無茶な、っひゃ…!」


ちゅ、と耳たぶに唇を落とされ、体わずかに跳ね上がる。ぎゅうぎゅうと腕の力が強まっていき、圧迫感とドキドキする熱がそれを主張してくる。


「〜〜っ、そ、そろそろ離してください…ッ」


おもちゃを離さない子供のような行動でも、この顔の整った成人男性がするんじゃわけが違う。
いくら体の関係を持ったからといって私とこの方では名前をつけられるような繋がりはない。過剰に反応する耳が熱い。心臓がぎゅう、と締め付けられて痛い。やめて欲しいという理性と、もっともっとという本能がせめぎ合って苦しい。


「**」
「あっ……ッ耳元、やめてください…っ」
「こちらを向け」
「や、ですっ、わわッ、!」


いとも簡単にひっくり返され、問答無用でノゼル様と向き合う羽目に。じっとこちらを見つめてくる視線があまりに真っ直ぐで逃げたくなって、泣きそうになる。


「次はお前からだ」
「…へ?」
「早くしろ」
「え?あの…ちょっと、ノゼル様、?」


え、なに、いきなり。
この方は言葉の数が少なすぎる。圧倒的文字数の少なさだ。伝わるわけがない。

なのにノゼル様は痺れを切らしたように、乱雑に私の腕を掴んでは自身の背中へと回させた。


「はっ、え、ちょっと…!?」
「腕を回せ」


自然と体が密着する。少し硬めの体から、鍛えていることが容易に想像できた。細身なのに、筋肉質な体。男性なんだ、と改めて意識させられ、困惑した。


「…早くしろ」


これは、抱きつけと言っているのだろうか。
ノゼル様の腕が私の背中に回り、ぐっと力を込めてくる。私の腕は宙ぶらりんにノゼル様の背中側を漂っている。もしかして、ハグして欲しいのだろうか。もうわけがわからない。


「…ハグを所望ですか…?」
「………」


帰ってきたのは無言だったけど、それはこの方の肯定を示しているようだった。
なんでまたいきなり…と脱力したが、望んでいるのなら、と恐る恐る腕を回した。

無理やりとはいえ、衣食住のお世話になっているから、せめてものお礼だ。


「………」
「………」


お互いになにも言わなかった。

ノゼル様の胸に耳を引っ付けると、少しゆっくりめの心音が鼓膜をくすぐって、ひどく落ち着けた。
なんだか、今日は子供みたいだな。


「…あの、」
「なんだ」
「この体勢、少しきついんで、ちょっと変えてもいいですか?」
「………」


うん、無言は肯定。
回していた手を離し、ちら、とノゼル様に視線を向けた。
穏やかな瞳はいつもからは想像もできないほどで、心臓がゆっくりと音を立てる。

あれだけ離れたがっていたのに、今度は自分から抱きつこうだなんておかしな話だ。そうは思ってもなぜか変なスイッチが入ってしまって、もっと近くにいたいなんて変な気分になる。


「…ノゼルさま、」
「………」


その場で膝立ちになればようやく視線が水平より少し上になる。普段私が下だから、上目遣いのノゼル様を見るのは多分初めてで。

遠慮がちに腕を広げれば、それに絡み合うようにノゼル様が体を傾けてきた。
私を求める視線に心臓が狂わされる。

首の後ろに腕を回した。サラサラでふわふわという不思議な髪質が腕をくすぐる。ノゼル様も私の背中に腕を優しく回し、ようやく体が密着する。


「…拍動が…速いな、」
「、そんなこと、ないです…」


またも子供のようにすり寄ってくるノゼル様。本当に私を求めているみたいなその仕草に思わずキュンとする。


「緊張、しているのか…?」
「……すこし、だけです、」


なぜか、ノゼル様の方が恐る恐ると聞いてきた。いつもならニヤリと笑って私を馬鹿にするような視線のはずなのに。

そんなことないですと嘘を言おうかと思ったけど、私を離すまいと必死のようにも感じるノゼル様だったから、素直にそう答えた。

言葉には出ていないけど、離れていくものを必死に抱き留めようとしているみたいだった。そんな姿を見たからか、『離れませんよ』、と思いを込めて腕にわずかに力を込めた。


「…**、」


そう名前を告げられ、ゆっくりと腕の力を抜き、ノゼル様に向き合った。滾るような瞳が至近距離で私を貫く。強くてスローペースな拍動が耳を覆う。


(キス、したい……)


そんな欲が溢れたが、ノゼル様も目を細め、わずかに首を傾げた。震える手もそのままに、唇だけが距離を縮めていく。
もうすぐで、熱が移る。
ドキドキとうるさい心臓の音さえも、なにも聞こえなくなっていく。まるで、私たちだけの空間に切り落とされたかのようで。


(ノゼル様…、)


あとはそのまま、目を閉じた。



コンコンッ!



「…っ、」
「!?」


突如響いたノック音。

その音で現実に引き戻され、一瞬で自分が今なにをしようとしていたかが頭によぎった。


「ノゼル様、ご昼食の準備が整いました」


ズルズルと腕を離し、それとなくノゼル様の体を押した。
自分のしようとしていた行動があまりに恥ずかしくて、顔を上げることができない。

それに伴ってノゼル様も、ゆっくりと私の体を解放した。


「…あぁ」


それだけ返事をしてはベッドから降りるノゼル様。私はというと、抑えきれない拍動を無理矢理にでも治めようと胸に手を当てて服を握りしめていた。

今、ノゼル様に、キスしようとしてた。わたしが、自分から。


「…食事にするぞ、支度をしろ、下民」
「っ、ぁ…は、い…」


だめだ、ノゼル様に絆されている。このままじゃ、本当にだめになりそうだ。

ガチャ、と開くドアとともに、使用人さんと美味しそうなご飯がやってきた。そろそろとベッドから降り、前回と同じ椅子に腰を下ろした。
いつもは手伝うけれど、今はそんなことをする余裕なんて微塵もなかった。


本日の昼食は、とツラツラと説明してくれているのを聞き流しては、ノゼル様の方を一切見ずに食事を始めた。


呼吸し始め音の群れ





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