こっちはまだ寒いなぁ、と先ほど煽られた冷風に体が冷えたのを感じつつ、大きめのキャリーバックを引きながら、耳へと流れる洋楽が気分を上げてくれる。ハイテンポのロックは第二の故郷で昔から親しまれている懐かしの歌だ。
帰って来たというのに、未だに洋楽を聴くのは向こうを出たのがまだ寂しいからで。
さて、彼はどこだろう。
イヤホンの片耳を外して周囲の音を聞けば、ざわざわと騒々しい音がもう片方から流れる音楽から意識をそらした。
──本日は日本航空JAMをご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。
日本語のアナウンスの後に流れる英語は五年前は意味もわからずただアナウンスを真似るだけで精一杯だったのに、今では翻訳などお手の物。むしろ発音がちょっと気になるからそれを正したくなるほどには英語が体に馴染んでいた。
「ねぇ、あの人…」
「この前テレビで出てなかった?」
「アメリカに留学した日本人ヒーローだよね!?」
「確かヒーロー名は…」
自意識過剰じゃない噂を聞き流す。噂しているのに話しかけないのは、私自身の日本での親しみはまだないからだろう。
まぁアメリカでヒーローやってた私が日本にまで名前が知られるくらい頑張ったけど、それ以上に日本のある学校の同期たちは世界中に名前を轟かせていた。主に、三人。
人物の例を挙げるとするならば、そう、今かなりの威圧で周りを牽制している目つきの悪さはもはやヴィランの彼とか。
「久しぶりだね」
「おぉ」
「こっちまで活躍が聞こえてたよ」
「そーかよ」
イヤホンを外して一定の距離で足を止めた。サングラスを額に押し上げ、乱れた髪の毛を振って視界から排除させればクリアになった色彩感覚で変わらない赤い瞳と目が合う。
アメリカでの五年間はあっという間だったのに、彼に会うまでの五年間は随分と長かった。
「私は?私はどうだった?」
「さぁな」
「はぁ…そう言うと思った…」
カーキ色のMA-1に、ベージュのニット、黒のスキニーに赤いゴツめのエアマックスだろうか、シンプルなのにセンスしか感じない服装で立つ姿はモデルといっても否定できない。
かっこいいなぁ、かっこよすぎるんだよ。そんなことを思っては苦笑した。
爆豪くん。
そう呼ぶと、ズカズカと間合いを詰めて来ては私にわずか50センチもない距離まで寄る。顔を上げないといけない身長差に時間の流れを感じつつ、逞しくカッコ良さに磨きがかかった愛しの人は私を見下ろしてニヤリと笑う。
「チビ」
「そっちが伸びたんだよ」
何センチあるんだろう。こっちも負けじと8センチのヒールを履いて来たのに、それすら上回るなんて成長期が暴走でもしてたんじゃないか。
そんな完璧なこの人に少しでも見合うように、背筋を伸ばしてまっすぐ立った。せっかく会うためにオシャレをしたんだ、成長した私の姿をたんと見て欲しい。
「……ハッ」
「え、なにその笑い」
「相変わらずテメェは変わらねぇな」
「嘘でしょ!?これでもちゃんとメイクもヘアアレンジも覚えたよ!?」
「ここの毛出てるぞ」
「……強風め…!!」
こんなことならここに来る前に一度トイレで自分チェックでもして来るべきだった…!
後悔に顔を歪めていたら風に吹かれて耐えきれなかった一房の髪の毛を手に爆豪くんは目を細めた。
昔からこの顔は好きだけど、成長した彼の笑顔は破壊力が違う。
三月という寒い季節なのに、顔が熱くなって来るのはきっと目の前の男のせいだ。
「ブス酸素」
「あーあー聞こえませーん」
「その顔究極にブスだな」
「ねぇ、そろそろ泣いていい?」
出会って早々ブスの連呼。これでも口説かれるくらいの容姿になったのに、あんまりじゃないか。まだ名前すら読んでもらえてないのに。
すこしの苛立ちで唇を尖らせて目の前の男を睨みつけた。まぁ素直に褒めてくれるなんてそれこそ思ってないけどさ。
「ブス」
「っい、いひゃいいひゃいいひゃい!!」
「いつもみたいにヘラヘラしやがれブス」
「……ばくごーくん、ほんと私の笑顔好きだよね」
「自惚れんな」
「はいはい、笑ってますよ、私の笑顔見たいもんね」
私の頬をつねる手に自分のを重ね、それとなく引き剥がして指先に唇を落とした。鼻腔をくすぐる甘い香りがふと高校時代を思い出してくれる。
このニトロの香りはどんな香水よりも私のお気に入り。
「……クソブスモブ酸素のくせに生意気だな」
「これでもアメリカ帰りだからねー」
あっちはなんかもう色々オーバーだから流石に慣れた。日本人ってシャイだなぁとつくづく思わされる。
スル…、と私の頬を指先で撫でてはちらりと視線を落とした。頬をくすぐる手がもどかしくて、もっと触れたくなってしまうのをグッと堪え、床を見つめる爆豪くんに「どうしたの?」と声をかける。
それにしても、もっと照れてくれるかと期待したけど、流石爆豪くん。隙の無さは変わってない。
「おい」
「ん?」
「お前、これからどーすんだ」
「どうって?」
「……アイツんとこ行くんか」
ズル、とサングラスが頭から落ちて目にかかる。
パチパチと瞬きをしては、微妙に視線が合わない瞳をじっと見つめた。ほんの少し眉間にシワがよってて、声のトーンも低い。そんなしおらしい態度に思わずプ、と笑ってしまった。
「なに笑ってんだ」
「ごめんごめん、なんか爆豪くんが可愛くて」
「舐めんなクソが」
「はいはい、それはこっちのセリフですよー」
さっきのお返しとばかりに緩く頬っぺたをつねった。まぁ、案の定秒で振り払われた。
宙に浮いた手をそのままサングラスに持っていっては取り外す。今度はそれを前の襟首に引っ掛けて、ふ、と口角を上げて視線を爆豪くんに向けた。
「留学前の告白、もう忘れちゃったの?」
「…五年も経ってんだろうが」
「うん、五年も待たせちゃった」
それにしても、五年前の方が強引でオラオラしてなかっただろうか。
成長して大人っぽくなったと同時に、あの時の強引さは薄れて、代わりにほんの少しの臆病が生まれてしまったようだ。もう、ほんとかわいいな。
「好き、大好き。五年間、毎日爆豪くんのことばっか考えてた」
「…人前だぞ」
「爆豪くんの追っかけがいるかもしれないから、牽制してるの」
「ハッ、イイ性格してんな」
「イイ女の間違いでしょ?」
「どこがだよ」
「えぇ…そこは肯定でしょ…」
「イイ女はこんなヘタくそな髪型してねぇよ」
「返す言葉もございません」
軽口を叩くついでに、轟くんとこはサイドキックとして行くだけだよ、と念を押しておく。
全く、すぐ轟くんに繋げたがるんだから、この人は。元好きな人は確かに特別だけど、今の私にとってそれ以上に特別な存在だとどうしてわからないのか。
それでも私の言葉に表情が落ち着いて、口元が小さく口角を上げた。不意にドキッとさせるような顔はやめてほしい、切実に。
「ま、わかっていただけたようで光栄です」
「うっせ、わぁっとったわ」
「もう、強情だなぁ」
クツクツと喉を鳴らして笑っては、私たちに集まる視線がかなり多くなったので、そろそろ帰ろうと促した。
って、本当に囲まれてるじゃん。写真も撮られてるし。
花形職業はプライバシーの保護が難しいなぁ、と改めて笑う。
「そろそろ帰ろっか」
「……」
「?どうしたの?」
行こうよ、とポケットに入っている腕の手首を引っ張るが、爆豪くんはポケットから手を抜かずにその場から動かなかった。それどころかさっきよりも増して酷い顔だ。眉間にシワが大集合しているじゃないか。
「爆豪くん…?」
「*」
「は、はい…?」
いつになく真剣な声。なんとなくただならぬ雰囲気を感じて、体が固まって、声が少しだけ上ずる。
掴んでいた手首をパッと離せば、緊張からかほんの少しだけ汗ばんでいた。
「ホワイトデーのお返し、まだしてねぇだろ」
そう言ってようやくポケットから抜かれた手の中、小さな黒い箱が掴まれていた。
私はそれを知っている。よくドラマとか漫画とかで男の人が女の人に渡すものだ。
「……え、?」
ずい、と差し出されたそれを受け取る。周囲に黄色い歓声が飛び交った。空港内を包むほどの声は、ここにどれだけ人が集まっているかすぐに連想させられる。
しかしそんなこと気にする余裕など微塵もなく、震える手でその箱を開けた。
真っ白のクッションに包まれていたのは、銀色の輪っかとそれに可愛らしくつけられた真っ赤な宝石。それは爆豪くんの瞳の色と同じだった。
「………ねぇ、あの、この指輪、」
「結婚しろ、*」
きゃあ、と一層大きくなる周囲の声。
ポタリと溢れたのは、私の涙だった。
「え、あの、え、待って…爆豪くん、?」
「返事は」
「まって、ねぇ、待って、頭付いてかない、」
「待たねェ」
「けっこ、え、本気?まだ付き合ってもないじゃん、爆豪くん、まって、あの、人前だよ、」
混乱して支離滅裂な発言ばかりする私に呆れたように笑い、私の手からリングケースを取ってキラキラ光る指輪を片手に私の右手を掴んだ。
「おせぇわ」なんて言って迷わずそれを右手の薬指に。ぴったりと収まったリングが薬指を冷やしたのは一瞬、すぐに体温に溶け込むリングはずっと前からそこにあったようだ。
混乱と嬉しさでボトボトと流れる涙。私はそれを止めるすべを知らない。
「はい以外の返事は聞かねェ」
「っふ、う…ッ」
「コレと、俺の苗字をテメェにやる」
「ば、くご、く…っ、」
「もう一回言うから次は返事しろよ」
とめどなく流れる涙を拭うこともせず、繋がれている手に力をぎゅっと入れる。もう嬉しくて幸せで、死んでしまいそうなくらい愛おしい。
グズグズ泣く私に爆豪くんが私の前髪を掻き上げた。そしてそのまま額に唇が触れられる。
「俺と結婚しろ、*」
逞しい首に両腕を回して抱きつく。答えなんて一つしかないに決まっている。
抱きしめ返してくれる腕があの時から随分頼もしくなった。
「〜〜っ、はい…!」
涙と鼻水でお世辞にも綺麗とは言えない。声も涙を含んでガラガラだし、化粧だって取れてると思う。
爆豪くんが見たら、すぐにブスって言うような顔だけど、今は幸せだから全部許してあげる。
「っはは、汚ねぇ声だな」
「顔はもっと汚いよぉぉぉぉ〜」
「……ブッ…ククっ、キスする気も失せるわ、ブス」
私と正面に向き合い、目尻に指を添えながら笑う爆豪くん。やっぱり言われた、とまた泣けば、それさえも笑ってしまうからもうどうでもよくなる。
「おめでとー!」
「やばい爆心地イケメンすぎ」
「本社に連絡しろ!スクープだ!!」
「もしもし部長ですか!?ビックニュースです!!」
「グスッ…明日から、大変そうだね」
「バァカ、んなもん向かい風にもなんねーわ」
「ふは、さすがヴィラン系ヒーロー」
「誰がヴィランだクソが!!!」
「その顔だよ、あははっ」
祝福の声に鳴り止まないシャッター音。時折フラッシュが眩しいが、それさえも祝福してくれているようだと思ってしまうから、もれなく私の脳内はお花畑だ。
とは言えひどい顔をカメラに収められるのは嫌だから、えりに引っ掛けたサングラスをもう一度掛け直してキャリーバックを手に持った。
「帰ろっか、爆豪くん」
「………バーカ」
「っ…!?」
途端に大きくなる喚声と目の前が真っ白になるほどのフラッシュ。
頭に上げられたサングラスは光を守らずに目がチカチカする。
唇がやわっこくて少し熱い。甘い香りが鼻をくすぐったのはそれからだった。
「お前も爆豪になんだよ」