よるのとばり 04

「あの、」

 控えめな低い声が左から聞こえた。聞き覚えのあるそれにグラスを傾けた手が止まる。

「…観音坂さん」
「お待たせしてすいません、**さん…。となり、いいですか?」

 アルコール度数の低いカクテルが入ったグラスをコースターの上に置いた。はい、といつもより少し高めの声でそう言うと、ジャケットを脱いで背もたれにかける観音坂さん。
 ほ、と安心したように細められた目。そのままシャツの腕まくりをするものだから心臓がきゅ、と締め付けられて顔がにやけそうになる。くたびれたサラリーマンが可愛いだなんて、わたしの頭も夜勤明けで結構やばい。

「仕事終わり、ですか?」
「はい、少し長引いたので…」
「遅くまでしているんですね、お疲れ様です」
「ありがとうございます。…仕事終わりですか?」
「いえ、わたしは…」

 綺麗めの服を取り揃えているお店で購入したばかりのワンピースに、美容院で気取りすぎないヘアアレンジをしてもらった。しかも夜勤明けでボロボロな肌を少しでも整えようと急遽予約したエステサロンで少し眠ったから、仕事終わりと言えば少し嘘になるだろう。

「色々とお買い物をしていました」
「そうなんですね。……その、」

 お互いまだ仕事中みたいな話し方だからか、緊張が解けない。まぁ…タメ口で話しかけられてもびっくりしてしまうが、緊張するくらいならフランクに話したくもなる。
 そんなことを悶々と考えながらグラスについた結露を指で撫でた。

「私服、素敵です」
「えっ」

 突然落とされた爆弾に直撃した。パチパチと瞬きをして顔を見ると、耳が真っ赤で。

「…すいません、こんなおっさんに褒められても嬉しくないですよね……」

 時間差で襲ってくる顔に集まる熱に、うまく言葉が出なくて。「その、」と無理やり出した声は情けなく震えてしまった。

「うれ、しいです、今日買ったばかりで、えっと……」
「…勘違いだったらすいません…、その…今日のため、って思ってもいいですか……?」

 わたしの顔を伺うようにおずおずと向けられた視線。年上だが、やはり可愛いと思ってしまった自分は結構やばい思考の持ち主だ。

「……かんちがい、じゃないです」

 大人しく見えて、結構グイグイくる人らしい。首元が熱くて、氷の入ったグラスを握りしめながら冷えろ、冷えろ、冷えろ、と念じた。

「とても、綺麗です」

 この人、女慣れしてるかもしれない。そうじゃなけりゃこんなにすらすら褒め言葉なんて出ないだろう。そう思いたいのに、真っ赤な首と耳が緊張の表れみたいで訳が分からなくなる。その反応はずるいだろう。

「…観音坂さんの私服も、見てみたいです」

 また会いたいという想いを込めて、これは、年下なりの、精一杯の仕返しだ。

「俺のなんて、大したことないですよ」
「ふふ、期待してます」
「うっ…新しい服買いに行きます……」
「えぇ、普段の服装が気になりますよ」
「おっさんの私服なんて大したことないですよ」
「観音坂さんでおっさんなら、わたしもおばさんですね」
「そっ、そんなことないです!!」

 上手く躱されたが、スローペースでも話ができるようになったのでまぁよしとする。必死な反応にクスクスと笑みをこぼしながら、「何か頼みましょう」と促した。

「すいません、お先にいただいていました」
「待ってもらって申し訳ないです。何時ごろから飲んでいたんですか?」
「えっと…20時ごろですね」
「1時間も飲んでいたんですか」
「グラス2杯ですよ。お水と一緒にかなりゆっくり飲んでました」

 わたしが月に一回程度来るバーで飲んでいたら、メールで同期に背中を押された。どうしようか渋ったが、エステも美容院も行って服まで買ってるのに何を渋ってるのだと突っ込まれて頑張って誘った。直接的ではないが、『今一人でバーで飲んでいます』なんて遠回しに誘うと、観音坂さんから『行ってもいいですか』とお返事をいただいたのだ。

「んー、何があるんですか?」
「そうですね…マスター、頼んでもいいですか?」
「はい。どのようなものがよろしいでしょうか?」
「あー…最初は軽めのサッパリしたものが飲みたいのですが、おすすめありますか?」
「そうですね、…ではパローマ、はいかがでしょうか?」

 結構穏やかな雰囲気の方だから、こういう落ち着いたバーがよく似合う。捲ったシャツから見える腕時計がギラギラしすぎておらず、落ち着いた彼の姿によく似合っていた。

「どういうやつですか?」
「テキーラ、グレープフルーツジュース、トニックウォーターを混ぜて作るサッパリとした口当たりのカクテルです。」
「ではそれをお願いします。」

 わたしも何か頼もうかな、と考えていたら、観音坂さんがわたしの苗字をそろりと呼んだ。

「**さん」

 この人に名前を呼ばれるの、嫌じゃないかも。

「何か、頼みますか?」

 そんな考えがバレないように笑みを浮かべて、「そうですね、」と応えた。一緒にいればいるほど、深いところに落とされていくような感覚に陥る。こんなにちょろい女だっただろうか。

「んん…わたしはシャンディガフをお願いします」
「かしこまりました」
「お酒は強いんですか?」
「弱くないとは思います。観音坂さんは?」
「俺は…結構飲む方だと思います、こう、ストレスがかかると……」
「あぁ…そんな感じがします」
「さ、酒飲みじゃないですよ!……たぶん」

 ストレス溜まっていそうだな、と一人苦笑した。そんな他愛もない話をポツポツしていると程なくして出来上がった二つのカクテル。氷が溶けてほぼ水が入っていたグラスを下げてもらい、新しいのをコースターの上に乗せた。
 では、と片手でグラスを掴む観音坂さん。少しでも女性らしく見られたくて、両手で添えるようにグラスを持った。

「改めて、お疲れ様です」
「はい、お疲れさまです」

 カチン、と小さくグラスがぶつかる。骨張った手首から男性らしさを感じて、一人勝手にまたキュンとした。
 口をつけるだけ程度に一口お酒を含ませながらちらりと隣を見ると、反った首元に喉仏が浮き出ていてまた心臓が締め付けられる。だめだ、めちゃくちゃかっこよく見える。

「ん、うまいです、これ」
「お口にあったようで安心しました。こちらお通しです」
「ありがとうございます」

 たった2歳しか変わらないのに、この色気はなんなんだろう。こんな素敵な人がどうしてわたしなんかに。ぐちゃぐちゃ考える思考を放棄するようにグイッとグラスを傾けた。口の中で弾ける炭酸の刺激がいつもながら病みつきになる。

「お、いきますね」
「…明日はなんの予定もない休みですから、飲まないと」

 実は自分で気づいていないだけで少し酔ってるのかもしれない。“だから帰る時間は何時になってもいいですよ”なんて遠回しに誘っているとも取れる発言をした自覚はある。

「そうなんですね、……俺もです」

 いや、自分で酔っていると思い込んでいるんだ。酔った振りして、発言一つ一つが何も考えていないように見せてるだけ。
 観音坂さんの返しにほんの少しだけ期待した。ずるい女だとわかっている。けど、きっと観音坂さんもずるい男性だ。

「ふふ、それならお互い、終電までゆっくり飲めますね」
「あぁ、そうですね」

 あえて終電というタイムリミットを設定した。惜しいと、返したくないと、少しでも思ってくれたらな。遠回しに思わせぶりなことを、何も思ってないように言葉を紡ぐ。大人の恋だの愛だの云々は面倒くさい。こういう駆け引きが散りばめられているから。

「俺、ペース早めなんで、自分のペースでゆっくり飲んでください」
「はい、そうさせてもらいます」
「次何飲むかな…」

 グラスを傾けながら、反対の手でネクタイを緩める姿がとても様になっている。少しずつスーツが着崩されていくのがとても艶やかで、心の中で白旗をあげた。これは参ってしまう。カッターシャツの第一ボタンを外すときのわずかに首を逸らす仕草も、つまみを食した後にペロリと指先を舐める行為もどれもこれも私の視線を惹きつけて止まない。

「? なにか俺についてますか?」
「っい、いえ、えっと……なにを頼みましょうか」
「そうだな…」

 だめだ、こんな一つ一つの仕草を見て興奮するだなんて変態じゃないか。バーが薄暗くて良かった。もし普通の居酒屋みたいに明るかったら、お酒のせいじゃない顔の赤さがバレてしまっていたかもしれない。

「この前うまいやつ飲んだんですよね、なんだったかな」
「どのような色やベースが覚えてらっしゃいますか?」
「あー、グラスの淵に、塩?が塗ってあって、ライムとかレモンとかそんな感じの……薄い黄色のカクテルだったような。確か……テキーラベースの、なんか食べ物の名前みたいなやつです」
「なるほど、…それならば、マルガリータ、というものが一番近いかもしれませんね」
「そう!それ!マルガリータ!それお願いします」
「美味しいんですか?」
「うまいですよ、さっぱりしてて。…あー、でも結構度数がキツイんであまりお勧めはできませんが……」

 酔わせてどうこうしようという意思はないみたいだ。そんな些細なことでも好感度がちょっぴり上がったり。私も頼もう、とカウンターに腕をついた。自分のペースで飲んでいいと言われたばっかりなのに、早速釣られてしまっている。

「わたしはモヒートをお願いします」
「かしこまりました」
「カクテルってお洒落な名前多いですよね」
「ほんと、頼むだけで気分が上がります」
「でもマルガリータって、マルゲリータみたいでこの前友人と爆笑して」
「あははっ、確かに、美味しそうな名前ですね」

 話もしやすいし、ほんとなんて魅力的な人なんだろう。時間を気にしたくなくて、なんとなく腕時計を外した。すると観音坂さんも同じように腕時計を外してポケットに入れた。わたしと同じ気持ちだったら嬉しいな。

 マスターが先に観音坂さんのマルガリータをカウンターに置いた。コップの縁にお塩だなんてなんとお洒落な。あぁ、もう、全部が全部いちいちカッコよくてムカついてきた。

「…ピザは出てきませんでしたね」

 ニヤっと口角を上げていたずらっぽく笑った。一瞬ぽかんと口を開けた観音坂さんが顔をくしゃりと崩した。

「はは、出てきても食うけどな」

 こう、たまに崩れる敬語がまた、なんというかグッと来る。観音坂さんに理性が乱されまくってる。思考回路が完全におっさんだが、これはもう仕方ない。

「晩ごはんは召し上がられたんですか?」
「はい。でも軽くなんでまだ食えます」
「わたしも少し小腹がすいちゃいました」
「**さんはよく食う方なんですか?」
「うーん、成人女性の平均よりは食べると思います」
「へぇ…意外ですね。そんな風に見えないです」

 カウンターの上にそっと乗せられたモヒートに口をつける。マルゲリータなんてピザの話をしていたから本当に何か食べたくなる。ここのバーは軽食ならマスターが提供してくれる。なにか頼むか聞くと、意外にも答えはノーで。

「空きっ腹にお酒って、結構酔っちゃいません?」
「…馬鹿なことを考える前に、酔っておきたくて」

 その馬鹿なことって、一体何ですか。

 そんなことを聞く勇気なんてなくて、そうですか、と流してグラスを煽った。ほんと思わせぶりなところ、ズルすぎる。

「っあ、でも俺のことは気にせずに食べてもらっても良いですよ」

 慌てたようにわたわたと手を振る観音坂さん。ずるいなぁ。あくまでわたしの意思を尊重する、そんな姿勢にわたしの心は乱されてばっかりだ。全部が全部、観音坂さんのペースにハマっていっているようで。

「…わたしも、いいです」
「……あの、いいんですか?」

 わたしと同じくせに。まぁ、観音坂さんは少し食事をしたから空きっ腹はわたし一人だけど。こんなバーに来ておいて、わたしに酔わないように仕向けようとしているのはやさしさからか、それともわたしと距離をおきたいのか。

「……わたしが酔っちゃったら、困りますか?」

 やられたらやり返せって強気の恋愛体質の同期がよく言っていた。ゆるく口に弧を描いて、じっ、とエメラルドグリーンを見つめる。観音坂さんは少し驚いたように目を見開いて、そのあとはゆるゆると視線がグラスに向いていった。

「……その質問は、困りますね」

 本当に困っているのだろうか。瞳の奥にギラギラと何かが蠢いているように見えたが、困っていると言ったのなら素直にその言葉を今は受け取って話を流そう。

「それに、お通しもおいしいので」
「……あぁ、確かにうまいです」

 こんな悪い女になれたんだ、わたしも。してやったり、と心の中で細く微笑んだ。夜はまだまだこれからだ。



………
……




「んん、お水、なくなっちゃいました」
「もう一度頼みますか、結構飲んでますし」
「観音坂さんは、あまり酔っている感じがしませんね」
「そんなことないですよ、さすがに少しは酔ってます」

 **さんはおそらくいくら飲んでも顔色が変わらないタイプだ。でも俺のペースにつられてしまっているのか、そこまで度数の高くない酒だが量は割と飲んでいる。いや、途中で俺と同じ結構度数がキツイのにあっさり飲めてしまうものを頼んでいたからきっとそこからだ。俺が飲む分には良かったが、後々調べれば“レディーキラー”と呼ばれるものだったらしい。
 それはさておき、少しゆっくりとした口調で、会話に支障はないが間が多くなってきている。おそらく俺よりは確実に酔っている。

「すいません、チェイサーを2つ」
「観音坂さんもお水飲むんですか?」
「まぁ、割と度数の高いものも飲んでるので」
「でも、やっぱお酒強いんですね」
「幼なじみに比べればそんなことないですよ」

 彼女は酔うと普段より笑い上戸になるらしい。けらけらと目尻をゆるめる表情が多くなっている。正直めちゃくちゃ可愛い。結構思わせぶりな発言をされてるから、理性を保つので精一杯だ。俺の酔いを覚さなければ。

(くっ……これが小悪魔系か……)

 いろんな笑い方をするのも結構キた。クシャッと嬉しそうに笑ったり、いたずらっぽく笑ったり、挑発するように妖艶に笑ったり。かなり心がかき乱されるわ、誘ってるのか誘ってないのか絶妙なラインの発言をするものだからもうめちゃくちゃに振り回されている。

「んー、次はなに飲もっかなぁ」
「……少し休憩した方が良いと思います」
「でもあとちょこっとだけ飲みたいんです、ひとくちふたくち程度の」
「その量のお酒だとショートカクテルくらいしかないですよ……」
「ショートカクテル…うーん、おいしいの多くて悩みます、なにがいいですかね」
「ショートはやめてください、度数がキツイのしかないです」

 ふふ、と小さく笑ったが、彼女の目は熱を帯びていて。彼女はグラスに入ってた残りのカクテルを一気に喉に流し込んでは「あまいのがいいなぁ」とふにゃりと顔を緩ませた。

 あっ、これ思った以上に酔ってらっしゃる。マジで勘弁してくれ。いや、ほんと、その、面倒くさいなんて全くもってそんなんじゃなくて。

(おもっ……ちかえりしたくなるだろまじでやめてくれ……!!!)

 職場で出会ってからまだ3日だけど結構惹かれてんだぞこっちは。なのにそんな俺の気も知らないで思わせぶりなこと言って酔って、ほんとなにがしたいんだ。俺を弄びたいのか?本気なのか?俺に持って帰らそうとしてるのか???

(男慣れしてんのか……?)

 モテるのはもう確信した。俺みたいにコロッと惚れる奴は絶対多い。バーに来てすぐはちょっと照れたりしてたからあんま慣れてないのかもとか思ったがこれはダメだ。オチる。

「もう飲み過ぎです**さん。この辺にしておきましょう」
「……ひとくち」
「え?」
「観音坂さんの、ひとくちほしいです」

 カウンターに肘をついて、俺の顔を覗き込むかのように上目遣いで微笑む姿に思考回路がぐちゃぐちゃになる。言葉の理解が追いついてなくて、は、とか、え、とか言葉にならない音が口から出た。

「ま、俺のって、ひと、えっ?」

 あぁそうだよ認めてやる。2歳だけだけど年下の女の子にやられまくってるよ。認めてやる。
 落ち着け落ち着けと心の中で何度も呟き、ぎゅう、とグラスを握る手に力を込めた。それなのにちゃんと思考がまとまって言葉を発しようと奮起している中で、またクスッと笑った彼女がいたずらに口を開いた。

「うそ。」

 ビックリしましたか?と続ける彼女の言葉はあまり聞いていなかった。プツンと途切れた何かが脳内をドロドロと溶かしていく。

「あー、やばいです、結構酔っちゃいました、すいません。お水飲みますね」

 ふと、素の彼女に戻ったようなトーン。酔ってる自覚をしたのだろう、酔いを覚まそうとチェイサーに手を伸ばした。

「あまり、」
「っ、あ…」
「年上をからかわない方がいいぞ」

 その手を止めるように手を上から掴んだ。俺の掌ですっぽり覆い隠された彼女はやはり女性で、とても小さく感じる。

「あ、えっと、その……」
「……もうすぐ、終電ですね」

 やさしくしようと思ってたけど、ここまで煽られちゃ応えてやる義務ってもんがあるだろ。それに本気でビビってんなら流石に離れるが、そうじゃないなら遠慮はしない。元々、我慢強いわけでもないからな。

「帰りたいですか?」
「っぁ……、」

 か細くて滑らかな指先を自分の若干汗ばんだ指でなぞった。わずかに跳ねた体。手を離そうとする気配は見せなかった。つまりは、そう言うことかもしれない。

「俺は帰したくない」

 比較的クリアな思考でそんな言葉が出た。クソ野郎なのは自覚してる。けど彼女も大概小悪魔系だ。第一印象が穏やかなだけよりタチが悪い。

「どうする?」

 何となく彼女の選択がわかってるから、仕返しとばかりに顔を覗き込むようにしてニヤリと笑った。ゆらゆら揺れる瞳の向こうに映る俺は、さぞかし悪い顔をしているのだろう。

「かんの、ざかさん…」
「ん?」

 どう答えるのか。雰囲気にのまれて欲が溢れてくる。恥ずかしいのか、彼女の瞳が潤んでいる。

「かえさないで」

 そう言って**さんの手を掴む俺の腕に、か細いそれが重ねられた。それが引き金だった。



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