会えないなら会えないで、いいなと思っていたあの人に対する感情も薄れていくだろう。そんなことを思いながらカタカタとパソコンに向き合う深夜2時。新しい機械を導入した次の日は夜勤になることが多く、今日も例に漏れず夜勤の業務の片手間に溜まった仕事を処理する。
(……綺麗だったなぁ……、)
若いのにしっかりしてて、患者さんからの評判も良さそうで、なにより目元しか見えてないのに整っているとわかる顔。俺みたいな隈の濃い根暗人間とは正反対な、そんな子。
『やっほー!どっぽちん夜勤おつおつ〜☆』
休憩、とスマホを開くと一二三からそんな連絡が来ていた。アイツも休憩中なのか、ホストモードではない口調だ。適当に『おう』とかそんな言葉を並べて返信ボタンを押す。
(彼氏、いないのか)
あんなにいい子なのに。あれが嘘か真実かは知らないが、とても不思議だった。手放しに喜んでいるわけではない。ただ、少しいいな、と思っただけで、俺がそういう対象になりたいとかまだそこまで気持ちも進んでいない。
それにあんな会って2日、しかも取引先の病院の職員になにかしらの感情を向けること自体異常だ。単なる憧れのような、好きな女優を見つけたような、そんなものだ。
(チョコ……)
ストックしてある一口チョコレートを引き出しから取り出す。透明のフィルムをとって口の中に放り込めば、下の上でコロコロと転がり、次第に表面がとろけていく。
ずっと彼女のことを考えているから思考が散乱する。だめだ、仕事に集中せねば。
手を組んでグッと上体を反らした。ポキポキと骨が音を立てる。まだまだ夜は長い。
prrr…prrr…
(っ、電話!?)
仕事用の電話が控えめに音を鳴らした。こんな時間にかかってくるなんてまさか。そんな不安を増大させながら慌てて通話ボタンを押した。
「っはい、E.L. Medical株式会社営業部観音坂です」
『……あ、観音坂さん、』
電話越しだからか声質は少し違う気がした。けど、その一言が一瞬息を詰まらせた。
「あ、えっと…**さん、ですか……?」
『はい、夜分遅くに申し訳ありません』
「い、いえ、」
不安と緊張が心臓の拍動を強くしていく。口がカラカラになって、思考が鈍くなるのを感じた。こんな夜に、どうしたんだ。まさか俺に連絡をくれたのか、なんてありもしない期待を抱いてしまうほどには頭が働いていなかった。
「その……どうかされましたか?」
『はい、水無月さんに導入していた“こころくん”についてお聞きしたいことがございまして』
だめだ、仕事をしなければ。思考を切り替えるように首をブンブン振った。慌ててマニュアルを机の上に重ねて、トラブル時の対応と書かれたページを開いた。……今日、夜勤なのか。俺と同じだ。
「なにかトラブルですか?」
『はい、その、なにやらずっとモニターが鳴っていて、停止ボタンを押しても止まらないんです』
「どういったアラームですか?」
彼女の言葉をメモしながら原因を考える。電話口の後ろではけたたましくアラームが鳴り響いていて、こんな時間には迷惑すぎるだろう。水無月さんは今病院のモニターを使用しているようだが、そんな状態では他の患者さんに迷惑がかかってしまう。
「機械の下に緊急停止ボタンがあります。それを一度押してみてください」
『はい……うーん、止まらないです、』
「それなら、」
いくつか考えつく案を出してみたがどれも不発で。これはまずいとスーツを手に取り、電源がつきっぱなしのノートパソコンをそのまま閉じた。念のため、新しい“こころくん”も持っていこう。
「すいません、10分ほどで病院に着くのでそちらに向かいます」
『えっ、そんな、こんな時間ですし……』
「そのままだとバッテリーが切れるまでに十数時間はかかってしまうので……こちらこそ申し訳ありません、すぐ向かいます」
『本当ですか……?それなら、』
ケータイを肩と耳の間に挟みながら、ガチャガチャと鍵を閉める。この時間なら車も空いているし、10分もかからないうちに病院に到着するだろう。
『病院でお待ちしています。夜遅いのでお気をつけて』
じんわりと、鼓膜を伝って脳に染み渡るような暖かさを感じた。ありがとうございます、そう告げた言葉が震えていたのは、どうか気づかれていませんように。
………
……
…
俺は、自分が関わる仕事先が、病院であることを改めて理解しなければならない。
「先生はなんて?」
「外科当直がすぐ来てくれるとのことです、家族に連絡します」
「了解、心マ次変わるわ」
「血圧62の30です!酸素65%!」
「リザーバーマックスで。生食も全開で落とそう」
こんな夜中なのにやけに騒々しいな、そんなことを思いながら病棟に入れば、ナースステーションの横の部屋で看護師さんがバタバタしていた。見ただけでわかる。誰かが急変したんだ。
「ルートとります、ついでに採血もするので検体を取ってください」
「はい!」
「挿管いつでもできるように準備しててください」
医療ドラマなんかよりもずっと騒々しくて、バタバタしてて、たった数人の看護師がその場を凌ごうと必死になっていた。その中に、彼女もいた。淡々と敬語で話していて、昼間とはまるで別人のようだった。あんな若いのに、後輩らしき子に指示まで出していて。
「すいません、通ります!」
「状況を教えてください」
俺はただ邪魔にならないように、隅っこの方に立ち竦んだ。ギュッと鞄を抱きしめ、変に緊張する心臓を押さえ込もうと体に力を込めて。
「DCします!離れてください!」
あんな若いのに、俺なんかとは全然違う。
「心マ再開します、バッグバルブマスクお願いします」
「はい!」
命の現場をぼんやりと見つめた。ほんの数分で患者さんを乗せたベッドがICUに運ばれていき、喧騒も次第に緩んでいく。抱きしめていた鞄を解放するとき、手で触れていた鞄の表面の革がほんのり湿っていた。緊張からか、手汗がすごくて慌ててハンドタオルで拭う。
(水無月さんじゃ、なかった)
それだけが唯一の安心材料だった。もし彼女だったら、もしモニターの故障のせいでこんなことになっていたら、そのせいでもし、間に合っていなかったら。
途端に恐怖に襲われる。全部全部、俺のせいで。
「観音坂、さん……?」
「ッ……あ、」
そろりと呟くような**さんの声に、パッと顔を上げる。疲れたような顔が印象的だった。先程とは全然違って、なぜか、とても小さく見えた。さっきはあんなにも雲の上の存在に見えたのに。
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
「い、いえ、そんな、全然……、」
「夜遅くにありがとうございます」
くたびれたような表情で、彼女は笑った。あんな現場のすぐあとだからか、その笑顔はとても苦しそうで。
「そ、れで、あの器械は、どちらにありますか?」
「こちらです」
そういって歩き始めた後ろ姿はやはり小さく見えて。ほんの少し早いと感じた歩調についていくと、くぐもった警報音を鳴らす物体の前にたどり着く。白いシーツで覆われたそれは電話口で聞いていたものより音はマシだった。
「すいません、どうやっても音が小さくならなくて、」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません……これ、取りますね」
弱々しい声だ。今にも泣き出しそうな、切実な声に申し訳なくなって、俺のせいで、と心の中で呟いてから謝罪した。
スルスルとシーツを解いていくと、思っていたよりも大きな音をたてる“こころくん”。静かにしないか、と諫めるようにボタンを操作したが、なかなか鳴り止まず。とりあえず中の配線につながるカバーをネジで取り外し、初期化ボタンを押す。
「ふぅ……」
「あ、止まりましたね」
「はい、なんとか……」
もう一度謝罪しようと顔を上げれば、**さんの表情は酷く辛そうだった。今にも泣き出しそうなのを、必死に堪えて笑っているような、そんな顔。
───……大丈夫ですか、
そんなことを聞こうとして、でもそれをいう勇気がなくて、すぐに言葉を飲み込んだ。視線を落とせばか細い手は震えていて。
俺のせいで、なんでそんな自虐よりも、何かしてあげられないか、そう思いながら無言で原因を探った。たまに音を鳴らす他の医療機器のモニター音。たぶん、ナースコールの音楽が響いて、俺の携帯じゃないバイブレーションが振動してはちらりとケータイを見る彼女に無意識に急かされる。そういう気がないのはわかっているけど、何か俺にできないか、そんな傲慢な考えが頭を支配して、さらに焦った。
「……あ、これか…、」
「何か、わかったんですか?」
「もしかしたらですが……この器械を一度落としかけたりとか、そんなことはありませんでしたか?」
「……あ、水無月さんのナースコールが鳴る前に、一度大きな音が鳴ったような…、」
「もしかしたら激しい揺れを感じて、地震感知モードになっていたと思われます。そうなると緊急停止ボタンでなんとかなるのですが……激しく揺れた拍子に中の器械が揺れてボタンが機能しなくなってしまっていたかもしれません」
角の部分に傷がついているし、結構な落とし方をしたのかもしれない。なんとなくの予測を立てて伝えて、新しい器械を取り出した。五年保証が付いているし、緊急停止ボタンが押せないのは困る。
「こちらで修理を行うので、新しいものを使ってください」
「いいんですか?」
「はい、説明不足で本当に申し訳ありませんでした」
少しだけ、ホッとした表情になった。それを確認して修理する“こころくん”を箱の中にしまう。
「水無月さんにもお伝えしておきます。たぶん、私のせいでってびっくりされてましたから」
「……僕の方からも、謝罪させていただくことは、できないでしょうか……」
そう告げると、一瞬驚いたような顔になって、それから何か考えるように顎に手を当てた。もう深夜の2時半だ、こんな根暗でお化けみたいな俺が行くと驚くかもしれないけど、もし、できるのなら直接顔を見て謝りたかった。
「……お部屋を覗いてきます。起きてらっしゃって、お話ができそうなら、」
「すいません、それでも構いません」
「…わかりました、お部屋の前まで行きましょうか」
幸いにも水無月さんのお部屋は個室で。夜の病院の廊下を二人で音をたてないように歩いた。いや、彼女は普通かもしれないけど、俺はスーツに革靴だから音を鳴らさないように必死で。
途中、あのナースステーションの隣の部屋が視界に入った。色々と散乱しているのを他の看護師が片付けていて、どれだけ緊急だったかが思い知らされる。
目のあった看護師に言葉なく頭を下げながら、早足で前を歩く後ろ姿について行った。やはり彼女はとても小さく見える。
「こちらです」
「は、はい…」
ナースステーションから死角になる部屋の前で、彼女は足を止めた。今にも涙がこぼれそうな、震えた声で俺にそう告げて。
「では…先に入りますね」
ドアに手を伸ばした彼女が、それを躊躇っているように見えた。
「っあ、あの、」
びくっと跳ねた体。ドアに触れる直前でその手が止まった。恐る恐る俺に顔を向ける彼女の顔は、やはり泣くのを我慢しているようにしか見えなくて。
「っだ、」
言葉が詰まる。声が震える。がんばれ、言うんだ、俺。間違っててもいいから、言うんだ。
「だいじょうぶ、ですか、」
俺の声の方が大丈夫じゃない。けどそれはいい。今は彼女に向き合うことで精一杯で。
「その、えっと……」
頭が回らない。口がパサパサする。こんなくたびれたサラリーマンに何を心配されるんだなんて思われてるかもしれない。これは、俺の自己満足だ。彼女のために何かしてあげたいと言う、自己満足。
「貴女が、苦しそうに、見えて……、」
うまく視覚が働いていなかったから、気づくのが遅かった。彼女が顔を歪めて涙を流したことに。
「っ、す、すいません、その、わたし、っ」
「っあ、えっと、」
慌てて鞄にティッシュが入っていないか探す。あー、くそ、そう言えば会社で取り出したから今はなかったんだ。なんであの時取り出した、俺。
今手元にあるのはさっき汗を拭ったハンカチしかないじゃないか。それで彼女の涙を拭おうなんて汚すぎる。
「すいません、ほんとうに、ッすいません、」
「そんな、謝らないでください…」
端っこならまだ大丈夫か、もう彼女の涙を拭うことで頭がいっぱいで、どうしようどうしようと一人焦る。っそうだ、この前駅中で配られたティッシュが別のポケットにあったはず……!!
「これ、その…よければ、使ってください」
「っす、いません、」
少しくたびれたティッシュを渡すと、彼女はその場でしゃがみ込んだ。声を荒げることもなく、ただ静かに涙を流す姿に何もできなくて、中腰になって見守った。
「はぁー…、大丈夫、切り替える、大丈夫。」
ティッシュを目に当てながら、自分に言い聞かせるように呟く姿が健気で、許される立場だったらその場で抱きしめたくなった。
「……**、さん」
そろりと、彼女の名前を告げた。
それに応じるように、俺の方は向かずに、ゆっくり口を開いた。
「まだまだ、ペーペーなんです」
「そんな、ことは……」
「はー、怖かった……っ、」
恐怖で震える彼女に、俺が何をしてあげられるのか。答えは、きっと見つからない。
「……ふぅ、」
その一息を最後に、震えが止まった。
「ごめんなさい、すごく助かりました」
そう言って綺麗に笑う彼女が、とても眩しくて。なんて弱くて、強いんだ。
「…俺は、なにも、」
「……お部屋に入れるか、微妙だったんです。冷静な判断ができそうになくて。止めてくれて、ほんとうに助かりました」
なにも言ってないのに、なにもしてないのに、俺なんかがなにもしなくてもきっと、きっとこの人ならうまく処理していただろうに。ほんとうに助かったと言うように笑うから、勝手に救われた気になってしまって。
「では入りますね」
「っは、い…、」
その笑顔を、守りたい。そんなクサいことを考えて、改めて思考が働いた。俺はきっと、この人に惹かれてる。
………
……
…
「夜遅くに本当にありがとうございました」
「こちらこそ、不手際で大変申し訳ありませんでした」
水無月さんは起きていて、無事面と向かって謝罪ができた。ごめんなさいね、と水無月さんからも謝罪を受けたが、その後は安心したように笑っていた。
「それと、その、いろいろと、ありがとうございました」
目元がわずかに赤くて潤んでいたが、すっきりとした笑顔だった。ちょっと……いやかなりグッときた。上目遣いでもあるし。くそ、こんな時になに考えてんだ、俺。
「おれは、なにも、」
「いえ、わたしは、すごく救われました。……お優しいんですね」
素直な言葉はむず痒い。けど嫌な気は全くしなくて。
「…………、」
「…………」
なんとも言えない空気が流れる。このまま終わりたくない。きっとここで別れれば、もう会えない。そんな気がしたけど、きっとそれは正しい。それは、いやだ。
「っあの、」
ずるくたって、どろくさくたって、下心が丸見えになったって別にいい。やって後悔するだろうけど、やらなくて後悔するよりずっといい。
ポケットの名刺入れから名刺を取り出し、ボールペンでその裏に殴り書きをする。緊張して手が震えるから、文字もミミズみたいな変な字になった。
「や、夜勤、頑張ってください、それと…」
「え、そ、そんな、悪いですよ」
「……もし、ご迷惑でなければ、」
なぜか入っていた一口チョコひとつと、会社用の名刺の裏に、プライベート用のメールアドレスを書いたものを渡す。なんだこれ、意味わからないくらい緊張する。くそ、かっこつかない。
「あ、…」
「……気が向いたら、その、……」
俺って、結構勇気あったんだな。
「また、お会いしたいです。今度は、仕事以外で」
心臓が飛び出そうだ。息が苦しい。こんなの初めてだぞ。ほぼ告白するような、こんな。……やべ、今お互い仕事中だった。そんなことを考える余裕すらないほど、頭はいっぱいいっぱいで。
「…………」
「いや、…その、すいません……きもち、わるいですよね、」
うわ、きもいだろ、俺。こんな隈が濃くて冴えないリーマンだぞ。途端に恥ずかしくなって、名刺を引こうとした。
「う、うれしいです」
そんな俺の手を引き止めるように、手が伸ばされた。渡すときに触れた指先は温度を感じる前に離れた。受け取って、くれた。
「ありがとうございます、観音坂さん」
やっぱり、高すぎない綺麗な声をしている。名刺とチョコを抱きとめるようにそっと手にとって胸元に当てた**さんの顔が赤くて、やっぱかわいいな、なんて思ったり。
だめだ、俺、もう引き返せない。