30
ゴールデンウィークもとうに終わり、いつも通り、いつも通りの日常である月曜日。ちょっぴり怒られることも少なくなって、いつもより早く帰れる、そんな日。送ってやる、と言ってくれた工を待っている校門前、音楽を聴きながらスマホを触る私に影がさした。もう着替え終わったのかな、そう思って片耳のイヤホンを取りつつ顔を上げる。視線を上げる前にふとよぎった。紫色ではない、見覚えのあるブラウンチェックのズボンだ。
「やぁ、久しぶりだね、▽ちゃん」
まだついているイヤホンから流れる音楽がシャットアウトされる。パーソナルスペースを無視した距離で私を見下ろすのは、過去によく見ていた端正な顔立ちのあの人で。
「及川、さん……」
とても綺麗に微笑んでいるのに、その目は笑っていなくて、私の心の奥を見ようとしているようだった。
「部活終わったよね?時間ある?俺とデートしようよ」
金縛りにあったように体が動かなかった。喉がどんどん乾いてきて、目の前がぐらぐらと歪んでいく。
「来るよね?」、有無を言わせない物言いだった。及川さんの手が顔に近づいてきて、指先が微かに耳に触れた。くすぐったいような刺激に過剰に体を跳ねさせる私にクスリと笑って、勿体ぶるように耳介を撫でる及川さん。
「ねぇ、▽ちゃん」
すぽ、と外されたイヤホン。唇が触れそうな至近距離で、直接耳に注がれた言葉になにも言えず、わずかに首を上下に振った。
及川さんの妙な色気に顔が熱くなって、耳がどんどん熱を持った。なのに指先は氷のように冷たくて、恐怖と羞恥に頭がぐちゃぐちゃになる。
「うん、いい子いい子」
ゆるゆると頭を撫でられる。大きな手は私の頭を包み込み、中学の時よりも安心と畏怖が増していた。
なけなしの理性で、工に「ごめん用事思い出したから先に帰る」と一言連絡を入れ、既読がつく前にスマホをとイヤホンをポケットにぐちゃぐちゃにしてしまった。
「じゃあ行こっか!」
「……どこに、行くんですか」
声は情けなく震えていた。重い足取りで及川さんの後ろをついていく。この人を見ると、中学のことがフラッシュバックして思考が低下する。『ウシワカを絶対に倒す』、そう殺気だった目で言っていたのをすぐ隣で見ていた私も、次こそは彼に勝つんだと賛同していたのが懐かしい。とても苦しい思い出だ。
「そんな怖い顔しないでよ、デートって言ったでしょ?」
「及川さん、あの、わたし、」
「まだなにも言わなくていいから、ほら、行くよー」
私はなにを言おうとしていたのか、懺悔なのか言い訳なのか、それすらもわからなかった。“まだ”が指す意味を理解したくなくて、引っ張られる腕に従って脚を動かした。
「でさー、及川さんがちょーっとファンの子と話してるだけなのにさー!この貞操なしクソ野郎なんていってボールぶつけてくるんだよ!ひどくない?」
「変わらないですね、岩泉さんも」
連れてこられたのは学園から少し離れた、青城とも遠いファミレスだった。及川さんのことだからキラッキラしたカフェかと思ったが、歩いている途中に暢気に鳴り響いたお腹の音を聞いた及川さんが「▽ちゃんはカフェごはんなんかじゃ足りないもんね」と言ってファミレスになった。お恥ずかしいがありがたい。
グリルチキンのセットライスを突くわたしと、同じように巨大なハンバーグを咀嚼する及川さん。もちろんセットのご飯は大盛りだ。
「でしょー!?ほんっと乱暴なんだからもー」
「はは……、」
きっとこれは本題ではない。及川さんの話を聞きながら、いつ聞かれるのかと心のどこかで身構えてた。今か今かと待ちながら、時間が経つにつれて感じなくなる味覚に緊張していることを自覚して。
「……▽ちゃんは?学校の勉強とかついていけてる?」
「うーん、やはりみんな頭良くて結構必死ですね……」
「だよねー。勉強できる子多そう」
「
「ぇ……そこまで来ると怖い……天才かよ……」
「医学部志望らしいです」
「あーーー」
けれどきっと、及川さんは私に緊張させまいとしているのだろう。いつもよりどことなくオーバーリアクションだし、口調も、どことなくぎこちない、気がする。
最後の一口を噛んで、ゆっくり噛んで、飲み込んだ。お口直しに水も嚥下して、ペーパーナプキンで口元を拭えばいよいよすることがなくなってしまう。
けれどそれは及川さんも同じようで、緊張による冷たさで感覚が鈍くなった手をぎゅっと握りしめて、恐る恐ると言ったように視線を上げた。
及川さんの目は、私の目を見ているのにどこか遠くを見ているようだった。
「───……ま、いきなり俺が来たらそりゃ緊張するよね」
「……、すいません……」
「いいよ、わかってたことだし。」
口の中の水分が次第に枯れていく。及川さんのことだから、罵声を浴びせるなんてことはしないだろうけど、なぜ宿敵である牛島さんのいる白鳥沢にいるのかくらいは聞かれるだろう。
裏切り者だと、思われているんだろうな。
「……最初に言っておくけど、俺、怒ってないよ」
その言葉に目を見開いた。「え、」と返した声はひどくかすれている。
「むしろ謝らないといけないのは俺の方。ごめん。」
「な、え、あの、待ってください、なんで及川さんが謝るんですか、私が白鳥沢に行って、……裏切りみたいなことになったのに、」
「確かに、▽ちゃんが白鳥沢に行ったのはショックだったけど……、でもそれを責めるのは違うでしょ?▽ちゃんが決めたことなんだから。」
及川さんは、悲しそうに笑った。話の意図が見えなくて、「あ、え、」という意味のない声しか喉から出てこない。
「俺が謝りたいのは、あいつらのこととか……たぶん拗れるだろうなって思ってたけど、引退した俺らが口出す問題じゃないって考えてたから、助けなかった。」
「卒業してからも何回か練習行ったりしてたのにね」、そう続けた及川さんに、私は混乱を隠せなくて。
ちがう。あれは私たちがちゃんと自分で昇華しなきゃいけないことだった。だから及川さんはなにも悪くない。
「そんな……、それこそ、及川さんはなにも悪くないじゃないですか、」
「…………みんなの2年の冬の大会で▽ちゃん、試合中ずっと無理やり笑ってたでしょ」
「ッ……、」
試合前に声をかけてくれたから、来ていたのは知っていた。でもちゃんとその時は笑えていたと思ったのに。
あの時は、既に上の先輩も抜けていて、私たちが主体のチームになっていた。みんなが少しずつ衝突して、雰囲気が悪くなっていってる時期だった。
「試合前に声かけた時は普通だと思ってたけど……試合を見て思ったよ。やっぱりうまくいってないんだって」
元キャプテンともあって、やはり私たちのことはよくわかったんだろう。崩れかけていると。それを各々が何とかして修復しようともがいていた。結果は、見ての通りだったが。
「……本当は、助けなかったとか言っときながら、中学ん時、俺は俺自身のことしか考えられなかったから、教えてやることもなにもできなかった。でも卒業して、青城に入って、少し余裕が出てきたときに後輩の試合を見て、あー、俺が招いた結果か、って思った。」
「及川さん……」
「だから、ごめん」
そんなこと、考えていたのか。どうしてこの人は背負おうとしてしまうんだろう。私たちの暗い部分も、及川さん自身の闇も。
「……それでも、やはり及川さんは、間違ったことなんて何一つしてないですよ」
「……、……」
「そりゃ、彼らに言われたこととか、酷いことたくさんありました。でも私自身も、崩れていく彼らを支えることができなかったから、」
「全部、及川さんのせいなんかじゃない。私たち自身の責任です。だから、謝らないでください。」
みんなに対する想いは、恐怖と、怒りと、自責の念と。全て混ぜてできた暗くて醜い感情が、引退するまでずっと私の中にこびりついていた。
「……もし、彼らと話すことがあっても、私はきっと彼らを突き放すと思います。でもそれは怒っているからじゃなくて、全部水に流して、きれいさっぱり全部なかったことにしようと思ったから、」
みんなの闇も、私の闇も、全部最初からなかったことにしないと、私は真っ直ぐ立つことができないから。
「だから、わたしは、だいじょうぶです。」
まだ、受け止めてお互いに許すのは、きっと難しいから。
自分に言い聞かせるようにそっと呟いた。及川さんは、「……そっか、」と寂しそうに言葉を紡いだ。
「それに、わたしはもう白鳥沢の一員だから、彼らが救ってくれたから、ひとりじゃ、ないから、」
「……そのことに関しては、ムカつくけど、……ウシワカに感謝してる。俺じゃきっと、救ってやれなかったから」
そういう意味で言ったのではないけれど、きっと及川さんもわかってる。
なんだか、みなさんに会いたくなった。まだマネとして全然で迷惑ばっかりかけてて、仲間だなんて思われてないかもしれないけれど、いつか仲間だと認めてもらえるようになりたい。そんなことをふと考えた。
けど、少しだけ、ちがうことも考えた。
「……あの、及川さん、」
わたしをバレーボールという世界に入れてくれた、彼らのことを。
「ん?どうしたの?」
暗い海の底に突き落とされた。楽しかった思い出も確かにあるけど、今はまだ辛い記憶しか鮮明ではなくて。それでも、それなのに、心の隅では考えてしまう。彼らのことを。
これはもはや呪いだ。彼らのことを考えてしまう、一生解けない呪い。
「あきら、……国見と、金田一は、その……どう、してますか」
久しぶりに名前を口に出した気がする。
「…………元気にバレーしてるよ。この前は烏野……飛雄のいる学校と、練習試合をしたよ。うちはベストメンバーじゃなかったし、俺も最後のサーブしか出れなかったけど……飛雄は相棒を見つけてクソムカつくバレーしてた。実際負けたし。」
「そう、なんですね、そっか……、」
「国見ちゃんは相変わらずサボろうと頭フル回転させてるし、金田一は真面目すぎて上級生にいじられまくってるし。」
「変わらないですね、みんな」
そっか、飛雄はあの頃と違って色々乗り越えたのかもしれない。英と勇太郎も、中学の時とはもう違うようだ。
乗り越えられてないのは、わたしだけなのかもしれない。
「……でも、ふたりとも、たまに悩んだようにバレーしてるけどね」
「え、」
「その理由は聞いてない。あの2人が解決するべきことだからね。」
わたしのことだ。
確信があるわけじゃないけど、きっと間違っていない。及川さんも、そう思っているから口に出したのだろう。
「でも▽ちゃんが気にすることじゃない。▽ちゃんは自分のことをちゃんと考えるのが最優先ね」
「及川さん……」
「▽ちゃんは不器用なんだから、ちゃんと一つ一つに向き合うのを優先しなきゃダメだよ。すぐキャパオーバーなのに無理して自滅するんだから。」
「う……耳が痛いです……」
「その様子だと既に無茶したんだね」
まったくもう、とプリプリ怒る及川さんに苦笑しかできなくて。こうしてチームが離れていると言うのになぜお見通しなのか。そんなにわたしが中学から変わってないのか、及川さんがすごいのか。おそらく後者寄りの両方だろう。
「だから、大丈夫だよ。」
及川さんは、結構ふざけてたりおちゃらけて岩泉さんにボコボコにされてることが目立つけど、それでもすごい人だ。牛島さんを絶対的で圧倒的な天才だと思っていて、自分は凡人、良くて秀才だと考えているようだけれど、わたしからすれば及川さんも何かを持っている人だ。
実力だけじゃない、カリスマ性というか、こう、言葉の力強さというか。だからこそ、及川さんの「大丈夫」には信頼できる。
「ありがとうございます」
だからこの言葉は素直に出てきた。氷がわずかに溶けてコップに溜まった水で喉を潤した。カラン、とグラスとぶつかり響いたそれは、ずいぶん時間が経ったせいか小さくなっている。
「今度は岩ちゃんも連れてくるね」
「はい、会えるのを楽しみにしていますと伝えて欲しいです」
「え〜、それは
気づけば口角が緩んで、肩の緊張も解けていた。頬杖をついた及川さんは、最初はつまらなさそうに唇を尖らせてため息ひとつついたが、「でも、」と続けた表情は一転して挑発するかのように口角が上がっていた。
「まず会うのは、インハイ予選決勝だね」
「……はい、そうですね。」
「負けないから、俺たち」
「うちも負けません」
仕返しのように笑ってやった。眉間にグッとシワを寄せ、目を細めて口の端をわざとらしく上がれば、及川さんは満足したように、ぽん、と私の頭を撫でた。
「▽ちゃん、白鳥沢に行ったみたいだね」
「! あ、えっと……そうなんですね、」
「………………」
「元気そうだったよ。今もバレー部のマネージャーしてるみたいだし」
最初は無反応だった国見ちゃんが、わずかに目を見開いた。更衣室で呟くように二人への言葉に対する反応は似通っている。金田一は分かりやすく動揺して、掴んでいる部分のブレザーにシワが寄っていた。
「『うちは負けません』ってキラキラした目で言われちゃった」
「そ、うですか……、」
「同中のやつの話が聞けてよかったですありがとうございます。お先失礼します。」
ばたん。としまったドア。二人がいなくなり、マッキーとまっつんがパチパチと目を瞬かせた。
「あんな一気に喋る国見、初めて見た」
「あぁ、俺もだ。」
「どれだけ突っ込まれたくないんだか」
「変わってねーな、中学から」
「ほんとだよ。」
シュルリとネクタイを巻いて、ブレザーに手をかける。基本、俺ら先輩の前じゃ剥き出した感情を表に出すことのない国見ちゃんが焦っていた。相当溝は深そうだ。
「△、またマネしてんだな」
「そー。びっくりしちゃった。」
ただ記録だけを黙々と書き続けていた中学の最後の試合を見て、もう辞めるんだろうな、とほとんど確信に近い形で思っていた。だからこそ驚いた。あの日、ウシワカとスポーツショップから出てきたことに。
「でもあいつも、なんだかんだでバレー好きだからな」
岩ちゃんの発言にゆっくり頷いた。きっと4人とも過去を乗り越えられていない。でも続けていたら何か変わるんじゃないか、そんな気がしたから。
「ま、俺たちは上に行くだけだからね」
ドカッ!!!
そう言うと背中に3箇所。すごい衝撃の殴打が襲ってきた。反動でロッカーに頭を突っ込むような体制になると、おそらく一番強く殴ったであろう岩ちゃんが口を開いた。
「当たり前のことを言ってんじゃねェ」
口が緩んだのは言うまでもない。
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