地元から遠く離れた土地で、都会の孤独に潰されそうになりながらもがいていた俺に、「話し相手にでも」と言った女の言葉がじわりと沁みたこともある。
多分、悪い奴じゃないはずだし。
気を緩めすぎなきゃ、こんな小柄な女になにかされるなんてあり得ないだろう。
ドアノブに手をかけたまま、室内の時計に目をやる。時刻は正午に迫っている。落ち着きを取り戻すと腹が自己主張を始めた。
グキュキュッ、という気の抜ける音に、小さな背中が反応する。黒髪の間からそおっと見上げる瞳。
俺はプラスチックの簡素な下駄箱から、100円ショップで購入したビーチサンダルを取り出した。ちょうど1年前、こちらに遊びに来た友人と海にでも行くかと盛り上がって買ったものだ。
フリーサイズのそのサンダルは、男の俺には小さくて踵が溢れてしまった。目の前の足には少しばかり大きいだろうが、裸足で歩くよりましだろう。
足元にサンダルを添えてやると、女は不思議そうに首を傾げる。
「とりあえず、飯でも食いに行こう」
こうして俺は、数分前の自分をあっさり裏切った。
散々怒鳴った挙げ句の誘い文句はなかなか恥ずかしいものがあったが、彼女は弾けるように笑った。
家から10分ほど歩いたところにあるラーメン屋に向かって、彼女とふたり並んで歩く。
名前を知らないのはコミュニケーションを取るうえで不便なので、彼女に尋ねてみたのだが、彼女は「セミです」としか答えなかった。
この女、結構強情だ。
例え彼女がセミだったとして、そのままセミと呼ぶのは俺が他の誰かから人間と呼ばれるのと同じだ。
何度聞いても同じ解答であることは目に見えていたので、仕方なく俺は彼女を「ミー子」と呼ぶことにした。
猫みたいな名前だが、ミーンミーンのミー子だ。セミの鳴き声がミーンミーンだけではないのはもちろん知っているが、ツクツク子やジー子よりは良いだろう。
「俺は佐倉良隆。良隆でいいよ」
「良隆さん」
ふふふ、となにが嬉しいのかミー子は微笑む。
本名を教えるのはまずかったかな、と言ってしまってから思ったが、連れ立って昼食をとりに来ているのだから今更だろう。
お世辞にも綺麗とは言えない小さなラーメン屋は、独り身であろう中年男性ばかり座っていた。そんななかに若い女を連れた俺が入って行くのだから、視線が向けられるのは無理もない。悪い気はしなかった。