俺よりも桂の方が登校してくる時間は遅い。ひんやりとした朝の空気に満たされた教室は、きっと俺のざわめく気持ちを落ち着けてくれるだろう。
けれども、もし桂が俺を避けてしまったら?
心臓が軋む音がする。どんなに俺が頑張っても桂が桂の意思で遠くに行ってしまえば、俺にはどうすることもできない。
桂の隣にいられなくなる日がこんなにも早く訪れるかもしれない事実に、指先まで冷えていく思いがした。
……いや。
秋の酸素を肺に溜め込んで、静かに目を伏せる。あの変わった女が昨日の一件を気にして俺を避けるなんて、普通の女子がとるような行動をするものか。
信号が青に変わる。俺は不安を掻き消すように自転車のペダルを強く踏み込んだ。
学校に到着し教室に入った瞬間、全身が凍りつくのを感じた。美しい黒髪を携えた美少女が、教室の中心でクラスメートたちと談笑しているのだ。
どうして桂が俺より先に登校してんだよ。思いがけない事態に、動揺はますます大きくなる。
入り口で立ち尽くす俺に、必然のように桂が目を向ける。
そして、やはりいままでとなんら変わらない無邪気な笑みをよこした。
「おはよう、清貴。今日は遅いのね」
俺を見つけた桂が迷うことなく歩み寄ってくる。ごく日常的な光景。昨日の夕方起こったことなど誰も知るはずがない。
平穏な朝の教室で、俺だけが言い様のない焦りを抱えていた。
「え、そ、そうか? 桂が早いんじゃなくて?」
「わたしは普段通りよ。時計を見てみたら?」
言われるがままに視線を上げる。針が指しているのはいつもよりずっと遅い時刻で、自分が朝随分と意識を持っていかれていたことが手にとるように分かる。平然と笑顔を浮かべる、目の前の美少女に。
俺を挑発したことなど始めからなかったかのように自然に振る舞う桂。それに困惑する反面、安堵する気持ちもある。
きっと桂が自分から意識して俺を避けることはない。
俺さえ冷静さを保つことができれば、すべてうまくいく。いままでとなにひとつ変わらないように。
幾分か落ち着きを取り戻した俺は、改めて桂に視線を向けた。持ち上がった形の良い唇がそこにある。沸き上がる記憶と共に滲み出る扇情を圧し殺して、俺も笑った。
「今日もピアノを弾いてから帰るのか」
口に出して、しまった、と思った。音楽室に関する話題は挙げない方が利口だった。