どういうことなんだ。さっきのは一体なんだったんだ。
声も出せずすっかり腰を抜かしかけている俺に、桂は俺が見慣れている、子供のような純粋無垢な笑顔を見せる。そして腰を屈めて顔を寄せ、言った。
「神崎先輩からの告白なら断ったよ」
呆然とする俺をそこに残したまま、また明日ね、とだけ言い残し桂は音楽室を後にした。
室内に静寂が戻っても俺の鼓動は一向に落ち着く気配を見せない。頭は冷静さを取り戻しつつあるが、先程起こった事態を飲み込むのには随分時間を要した。
なんだあれは。誰だ、あれは。
俺の隣で声を上げて笑う子供のような笹原桂は、いなかった。
異性に告白されたことを俺に話そうとしないと憤慨していた自分がひどく幼稚に思える。なにが友達だ。なにが特別だ。結局俺は、笹原桂という人間をまったく理解していなかったじゃないか。
彼女が立ち去ってしばらく経っても、沈黙するピアノを見つめたまま、俺はそこを動くことができなかった。
翌朝、目を覚ました時点から憂鬱は始まっていた。俺は今日、どんな顔をして桂に会えばいいのだろう。
重たい体を引きずってのろのろと登校の準備をする。できることならこのままサボってしまいたい。けれども、いつまでもそうやって逃げ続けるわけにもいかない。
ワイシャツのボタンを留めていると、音楽室で桂に触れられたことを思い出す。桂の細くて長い指がゆっくりと胸元を伝う、その感触。とろけるような視線が絡み付く。
「………うわあ……」
何気なく視線を落としてから、俺は力なくその場にしゃがみこんだ。朝だからだ朝だからだ朝だからだ、と呪文のように唱えてはみたものの、抗うことができない生理的反応に泣きたくなった。
最悪だ。桂を、友達を、そういう目で見るなんて。
頭を抱えてうなだれたところで、ある言葉が胸の奥に引っかかった。「友達」――。
昨日悶々と自身に問いただした議題が再び渦を巻いていく。けれども何度首を捻っても出なかった答えを慌ただしい朝の時間に見つけられるはずもなく、俺はすぐに諦めて乱暴に髪を掻き回した。
俺がいまやるべきことは桂との関係を再確認することじゃない。桂の前でいかに平静さを保つかについて考えなくては。
学校に行くまでの道程は、この数日間に食べたものをひたすら思い返すことで今朝の失態を繰り返さないよう努めた。