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 ノウゼンカツラ。夕焼けのなかに浮かぶ朱黄色の花が映像として断片的に思い出される。記憶の箱を掻き回し、どこかにしまわれているはずのそれについての知識を求める。確か、夏に花を咲かせる落葉樹だった。
 夏、夏、……夏?
 雪のように白い肌を持ち、氷のように美しく微笑む桂にはどうにも遠い言葉に思えた。
「桂ってもしかして夏生まれ?」
「そうよ」
「意外だな。冬生まれだとばかり思ってた」
「雪女みたいな顔してる?」
「うん、まあ」
 失礼ね、とわざとらしく怒った顔を作ってから、桂は声を立てて笑った。俺もなんだかおかしくなって同じように声をあげる。ただそうしているだけで幸福を感じた。どれにも変えがたい時間だと思った。
 月に高い理想を掲げる桂の木と、朱黄色の大きな花を咲かせるノウゼンカツラ。どちらも笹原桂を中心で捕らえたような植物であると、彼女を「かつら」と名付けた顔も知らぬ両親のセンスに感心した。
 音楽室の前、桂が慣れた様子で鍵を取り出した。いまはもう、なんとか扉を開けられないかと挙動不審に鍵穴を覗き込むことなどない。けれども見慣れたはずのその動作に俺はどこか違和感を覚えた。
 違和感の正体はすぐに判明した。鍵の持ち手に赤いリボンが咲いていたのだ。
 俺は思わず首を傾げた。先週桂と音楽室を訪れた際、そこには教室名の書かれたプレートが下がっていたはずだ。いつの間にこんなに愛らしい容姿になったのだろう。
 俺の視線に気付いたらしい桂が顔をあげる。
 桂の瞳が俺の顔を見やり、目線を追うようにして自分の手元に行き着いた。赤く薄い唇が持ち上がって、ふふ、と息が漏れる。
「もらったのよ。プレゼント」
 それだけ言って彼女は瞼を落とした。
 プレゼント、とはどういうことなのだろう。いくら桂が自主的にピアノを演奏しに音楽室に足を運ぶような生徒でも、学校側から個人に鍵が贈呈されることなどあるわけがない。西川先生は優しいひとだが、一生徒に明らかな贔屓をするような人間ではない。ならば一体誰が。
 ――咲き乱れるノウゼンカツラはいつの記憶であったか。いまよりもずっと低い位置から朱黄色の花を見上げる俺に、年老いた隣人が声をかける。
 華やかで堂々としていて、美しい花でしょう。でも気を付けて。ノウゼンカツラの花の汁には、毒があるからね。
 桂の白い手のなか、浮かび上がる赤いリボンは、ノウゼンカツラの花のようだった。

 




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