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「それじゃまたね、小野田くん」
 白い手をひらりと振り、スカートをなびかせ、笹原桂は自分の席へと戻って行った。
 またね、とは、また次の機会があるということだろうか。昨日は特に考えもしなかった別れの挨拶について、ぼんやりと思った。
 彼女の背中を横目で見ながら、河本が口元を盛大にゆるめ俺を小突く。
「目があったときにちょっとでも笑ってくれたら儲けもん、じゃなかったのかよ」
「いや、うん……そう思ってたんだけど」
 けど。
 彼女は俺に接触を図った。
 昨日のこと、あの場限りの出来事と片付けるのではなく、それを持ち出して離れた席の俺にわざわざ話しかけてきた。
 この発想が大袈裟なものだとは思わない。話しかけられれば会話に交ざり、誘われれば着いていくというように、俺の認識が正しければ彼女の人付き合いは本当に受け身なものだった。
 そしてそれを裏付ける、クラスメートたちの驚いた顔。
 彼女がなにを考えているのかさっぱり分からない。ただ、悪い気分ではもちろんなかった。
「またね小野田くん、だってさ。笹原桂、お前しか見えてないって感じだったし。俺も笹原桂とお近づきになりてえー」
 冷やかす河本に返事はせず、俺は昨日今日の彼女の言動を思い返していた。
 意外と子供っぽい仕草、熱心にピアノを弾く横顔、照れて赤く染まる頬。ごく普通の少女と変わらない笑顔ではしゃぐ美しいひと。
 椅子の背もたれに体重をかけ、それらを閉じ込めるように瞼を落とす。窓から降り注ぐ夏の日差しが皮膚を細やかに焦がしていく。
 俺の思い上がりでなければ、もしやこれは、彼女が俺に気を許してくれたということになるのか。
 誰かの「特別」である優越感、そしてその「誰か」が校内で知らぬ者のいない黒髪の美少女であること。新たな交友が広がっていく予感。期待に満ちた胸の高鳴りが心地よく、今朝の晴天に負けぬほどの爽やかな感動を俺はひとり噛みしめていた。
 重要な事項が頭からすっぽり抜け落ちている事実に、気付きもしないまま。

 




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