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 彼女は彼女にとって当たり前の行動をしただけ。過大な受け取り方はお互いにマイナスにしかならない。
 ノートの最終行まであと3行というところで、教室内の空気が少し乱れたのを感じた。視線だけをそちらにずらす。
「噂をすればってやつだな」
 河本が口端を小さく上げて笑った。
 クラスメートの挨拶に笑顔を返す笹原桂がそこにいた。
 余計な期待はなんの意味も持たない、と長々と河本に語ってやったのにも関わらず、意識とは別のところで心臓が騒いだ。馬鹿、落ち着け。
 教室の入り口で数人の女子と会話を交わしながら、彼女の視線がぐるりと教室内を回る。そして俺と目があったところで、ピタリとそれは止まった。
「え……」
 疑問とも驚きともつかない声が漏れる。パッとその美しい顔を輝かせたと思うと、笹原桂が急ぎ足に俺の側に寄ってきたのだ。
「おはよう小野田くん! と、河本くんも」
 目があったときに笑ってくれたら儲けもん、……なのだとしたら、これはどのくらいの価値に当たるのだろう。
 先程まで彼女と話していた女子たちが驚いた顔でなにやら話している。その子たちだけではない。クラスにいるほとんどの生徒の視線を、俺たちはいま浴びている。
「おはよー笹原さん! ってゆか俺の名前知ってたんだ!」
 昨日の俺と同じ内容を聞き返す友人の声で我に返る。だってクラスメートでしょ、とまたもや同じ台詞を返して、彼女の視線が俺に戻った。
 俺も慌てて彼女に挨拶を返す。
「お、おはよう」
「ふふふっ、どうしたの? ぼーっとして」
 軽い調子の笑い声をたてる彼女はとても自然で、まるで俺たちが以前からそうしていたかのような錯覚さえ覚える。
 動揺を隠せずにいる俺に、しっかりしろとばかりに河本が机の下で小さく蹴りを入れた。
 彼女がその場に屈み込んで、組んだ腕を俺の机に置く。俺より高かった目線が今度は低くなって、距離がぐっと縮まる。
 その行動にどぎまぎせずにはいられない。
 笹原桂はこんなに積極的にクラスメートに関わっていくような生徒であっただろうか。
「小野田くん、昨日はありがとう」
 なにが、と尋ねるまでもない。彼女と俺の接点はひとつしかないのだ。




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