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 俺の台詞を反芻して、河本が信じられないとでも言いたげな顔をする。そんなおいしい展開になっていながら放課後デートの誘いをしなかったのか、といったところだろう。
 実のところ、俺だってそれについて考えなかったわけではない。
 しかしピアノを弾き終わり清々しい顔で帰り支度をする笹原桂を見ていたら、良かったら一緒に帰らないか、という言葉は頭の端に追いやられてしまった。
 チキンとでも笑えばいい。俺は内心でひっそりぼやく。
「それにさ」
 ストローの先端を甘噛みしながら再び口を開く。首を捻って自分の背中側にあたるグラウンドを眺めていた河本が、目線だけを俺に戻した。
「別に昨日ちょっと話したからって、いままでとなにが変わるわけでもないと思う」
「どうして」
 こいつ、国語は得意なくせにどうしてこう色々と考えが足りないかな。パックジュースの底を机につけて、俺は河本にご丁寧に説明してやった。
 昨日たまたま笹原桂と会って音楽室の鍵を開けてやったのが俺じゃなくても、彼女はピアノの演奏を聴かせたであろうこと。そしてそれは彼女がピアノを弾きたがっていたからであって、深い意味などないこと。目的を達した彼女が俺に特別親しくすることなど有り得ないこと。
「一晩明けた今日なんて、目があったときにちょっとでも笑ってくれたら儲けもんって程度だろ」
 そう言って締めくくる俺に、河本が顔をしかめる。
「夢のねえ奴」
「なんとでも言えよ」
 視線を手元に落としこれまでの作業を再開する。
 河本の言わんとすることも分からないでもないのだ。実際、音楽室で彼女と別れたあとの俺は、自分でも分かるくらい浮き足立っていた。妄想が発展し、羨望の眼差しを浴びながらの高校生活に耐えられるだろうか、などといらぬ心配までした。
 それでも冷静に考えてみれば、昨日のあの一件で彼女が俺を意識してくれるなどと考える方がおかしいのだ。
 あの外見の彼女のことだ、困っていれば誰もが親切にしてくれるだろう。それに対して気まぐれに彼女がお礼ともとれるアクションを返すかもしれない。昨日のピアノの演奏などまさにそれだろう。
 だからといってその行為をいちいち恋愛感情の云々に関係付けられたら、彼女だっていい迷惑というものだ。




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