08


 良かった、本当に、とても感動したのだ。そう言いたいのに、うまくそれを言葉に表せなくてひどくもどかしい。音楽でこんなに気持ちが昂ったのは初めてなのに、表現のしかたが分からない。
 己の文章能力の無さをこんなに呪ったのもまた初めてだった。
「へへっ、やっぱり長い間触ってないとひどいね。途中からちょっと恥ずかしかった」
 彼女が困った顔をして赤い両頬を押さえる。俺は大袈裟なくらい大きく首を横に振った。
「そんなことないよ。こんなにドキドキしながらピアノの演奏を聴いたことなんてない。すっごく感動した」
「うそっ」
「マジです、大マジです」
 言いながら、想いは口に出すとなんてチープになるのだろうと思った。素直な感想を述べているつもりなのに、自分の言葉はまるで音楽の授業で提出する気持ちのこもらない感想文のようだった。
 それがただ悔しい。
 やりきれないもやもや感を抱えながらも、最後にひとつ付け足した。蛇足になる気もしたが、純粋にこの感動を少しでも奏者に返したかった。
「音楽を聴いて優しいなって感じたの、初めてだ」
 真面目に言って、照れ臭くなる。終わりの方は目をそらさずにいられなかった。
 それでも、この言葉がどうか彼女のなかで上辺の感想だと捉えられませんように、と何度も願った。
 彼女が体をこちらに向け立ち上がる。切り揃えられた前髪が顔を隠すように覆って、その表情は読み取れない。俺のなかを妙な緊張が駆け抜ける。
 そして次に見た彼女は、いままでで一番美しい笑顔を浮かべていた。
「ありがとう。こんなに素敵な感想をもらったの、わたしも初めてだよ」
 窓の外では、すでに雨があがっていた。


 




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