07


 白と黒のコントラストの強い鍵盤に手を重ね、一呼吸置いてから彼女はゆったりとした動きでピアノを弾き始めた。楽器の演奏を聴く機会など音楽の授業程度しかない俺は、どうすればいいか分からず焦った。
 辺りを軽く見渡して、演奏する彼女の斜め前に位置する机に腰を下ろした。
 どこか懐かしさを覚える曲調。しばらく聴いているうちに、それが何年か前に話題になった有名なハリウッド映画の主題歌であることに気が付いた。
 なるほど、クラシックに疎い俺のための選曲か。馴染みの深い曲に肩の力が抜ける。
 固い学生机を客席に、俺は静かに彼女の演奏に耳を傾けた。
 小学校以来だから、と自信無さげに話した彼女は、一体なにを心配したのだろうか。彼女の手は、少なくとも素人の俺からすれば十分なほどなめらかに鍵盤の上を転がっていく。
 音楽には人間性が表れると聞く。奏者や指揮者が変わるだけで、同じ曲でも印象が違ってくるものなのだと。
 正直な話、俺がその違いとやらを的確に聴き分けられるほど音楽に長けた人間かと問われれば、答えは否だ。
 だけどこれだけは分かる。
 彼女の、笹原桂の演奏は優しくて、誠実だった。
 穏やかな音の羅列が部屋のなかに満ちて、俺を包み込んでいく。
 もちろん天才的な腕前と評するほどのものでは確実にない、そのくらいは分かる。けれどなにか、例えるなら幼い頃に聞いた母の子守唄のような、絶妙な温度をもってこちら側の内に伝ってくるのだ。しっとりと、足元から浸るように。
 最初に身構えたのが嘘のようだった。ぼんやりとその横顔を眺めているうちに、気付けば演奏は終わり彼女の手は制止していた。
 ハッと顔を上げる。軽い緊張のためか、はたまた久しぶりのピアノの演奏に気持ちが高揚してか、彼女の頬は薄く染まっていた。
 しばらく自分の指先を見つめ、その視線が俺を捕らえる。
 弾かれたように立ち上がり、俺はパチパチと手を叩いた。
「すごく良かった」
「本当?」
「うん」
 くしゃりと彼女の表情が崩れる。なんだかたまらない気持ちになった。




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