06


 持っていた鍵で扉を開ける。いまかいまかと手元を高揚した面持ちで見つめられ、鍵穴に鍵を差し込むだけの動作に妙な緊張を覚えた。
 滑りの悪い扉を強めに引く。 ひとのいない音楽室はしっとりと窓を濡らし沈黙していた。
「わーっ、久しぶり!」
 まるで旧友に再会したかのような声をあげ、斜め後ろに立っていた彼女は室内に駆け出した。整列する机の間を縫って進み、たどり着いたのは音楽室の中心にたたずむピアノだった。
 漆黒のボディにそっと指を這わせる。まるで道端の子猫を撫でるような手つきである。
 そのままゆっくりと、彼女はピアノにもたれ掛かった。絹のような柔らかな黒髪がさらさらと溢れていく。そっと彼女が目を閉じた。
 綺麗だった。長い睫毛、赤い唇、ピアノを這う細い指。すべてがガラス細工のような繊細さを誇り、細かなところまで配慮された美しさは美術室に並ぶ純白の石膏像を思わせた。
 きゅう、と心臓を掴まれたかのような胸苦しさ。目を離すことができない。
 そのとき、彼女の薄い唇が開いた。
「……ただいま、父さん」
 ぽつりと彼女はそう言った。
 どういう意味だ。いや、そもそも聞き間違いだろうか、と思惑を巡らせているうちに、彼女は体を起こしてこちらを振り返った。ごく自然な動作で。
 目が合い、心臓が跳ねる。
「好きな曲とかある?」
「え?」
「あまり難しいのは弾けないけど。ピアノに触るのなんて小学校以来だから」
 先程の、意図の読めない発言がなかったかのようなあっさりとした素振りに、肩透かしをくらった気分になる。聞くな、ということなのか。分からない。
 とにかく、完全に尋ねる機会を失ってしまった。
 ぎこちなく同じ室内に足を踏み入れる。伺うような視線に、俺はおとなしく質問の返事をすることにした。
「ごめん、クラシックは聴かないから……」
「そっかあ」
 眉尻を下げつつ彼女は笑う。少し考えてから、プリーツスカートを揺らして移動した。
 ピアノの前に置かれた背もたれのない椅子に腰をかける。
 そして俺の方を見上げ再び微笑んだ。
「じゃあ、これならどうかな」




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