05


 ゆっくりとこちらを振り返り、俺の顔を確認すると彼女の肩から力が抜けた。柔らかな笑みが向けられる。
「びっくりした。小野田くんかあ」
 驚いた。入学するなり毎日ひっきりなしに誰かしらに囲まれて、こんにちは俺何々っていうんだ、と自己紹介の嵐に襲われていた笹原桂が、ろくに口を聞いたこともないクラスメートの名前を覚えているなど予想外だった。
「俺の名前覚えてたんだ」
 思ったことがそのまま口をついて出てしまう。失敗した、と内心で自分自身に落胆した。これでは彼女に軽い気持ちで声をかける男子生徒と変わらない口振りじゃないか。
 けれども彼女は少し不思議そうな顔をして、「だってクラスメートじゃない」と笑ってくれた。その笑顔が優しくて、自分のような大した関わりもない人間にそんな顔を向けてくれる彼女に感動した。
 俺は彼女のことを恐れすぎていたのかもしれないし、いちいち過大に考えすぎなのかもしれない。
「そんなところにしゃがんで、なにしてたの」
 先程よりは気軽に声をかけることができた。彼女は俺の問いに顔を赤らめ、困ったように左耳を掻いた。それだけの動作だというのに、笹原桂が行うとあまりに可憐であまりに愛らしくなるのだと俺は知った。
 目の前に立たれて、男子生徒が我先にと彼女と知り合いになろうとした理由を改めて理解した。
 少しの間言い渋るように唇を尖らせ、伏し目がちに彼女は呟いた。
「鍵……なんとか開けられないかなあって、見てたの」
「鍵? 音楽室の?」
「そう」
 彼女も俺と同じように、なにか忘れ物でもしたのだろうか。俺は手の中の鍵を握り直した。
「じゃあ一緒に入る?」
「え?」
「俺、ケータイ忘れちゃって。いま鍵借りてきたとこ」
 そう言って目の前に音楽室の鍵をかざして見せる。揺れる鍵の向こうで、彼女の顔がパッと華やいだ。
「いいの!?」
 うん、と頷くより早く、彼女はその場にとび跳ねて喜んだ。子供のような仕草が落ち着いたイメージの彼女にはそぐわなくて、思わずこちらまで笑みがこぼれてしまう。
 それほど重要な用事が音楽室のなかには転がっているのか。




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