夏休み休暇を取った。余りにも仕事が辛過ぎて、本当はそんな余裕すらも無かったのだけれど。精神的に限界を迎えてしまい、会社の上司とお世話になっている病院の医師とちゃんと話し合いをして、リフレッシュ期間を作ろうという話に落ち着いた。特別仕事が出来た訳でもない、期待されてる訳でもない、この平凡な人材を、果たしてサマーバケーションが終わった時、会社はまだ私の席を開けておいてくれるのか。答えは何となく見えていた。また嫌な気持ちになって死にたい欲に拍車が掛かる。

リフレッシュ期間には、海が綺麗な所を選んだ。休職した1ヶ月、この自然豊かな環境に囲まれて穏やかに過ごしたら、私のこの精神的な病気は良くなってくれるのか。夕陽の沈んで行く、一面オレンジになった景色を見ながらそんな事を思い黄昏た。しかし1週間が過ぎた今でも、思い出すのは会社の事と上手く行かない人間関係とで、嫌気が差してまた泣いた。私はもう社会には戻れないんじゃないか。そう思うと急に不安で、ポロポロ涙が止まらなかった。もう駄目だ、死のう。そう決心がついたのは、雨と風の凄いある日の事。

傘も差さずに浜辺へと出て、叩きつける雨を全身で受けながらドロドロにぬかるんだ砂浜を進んで行く。当然ながら荒れる浜辺に人の姿等なく、サンダルのまま波打ち際に足を踏み入れると思った以上に冷たくて一瞬顔を顰めた。荒れ狂う波が、まるで私を誘うかの様に大きく満ち引きしている。この波に攫われて海の藻屑になれたなら、私は楽になれるのかな。そんな思いに爆ぜながら一歩、また一歩と灰色の海へと進んで行く。冷たい。夏の海なのに、雨が降るだけでこんなにも冷たくなるんだ。押し寄せて、かと思うと強く引かれて、まだ腰程の深さにしか達していないのに、身体が今にも波に呑まれそうだった。


「…!」


ちらり、ちらり。一瞬、視界の端っこに何か黒い異物が映り込んでよく目を凝らす。何だろう、今の…。あっ、また!今度はちゃんと目で捉える事が出来た瞬間、その黒い何かが海面から飛び出して、グルリと私の周りを囲み出したのにブルリと震えた。っえ、何これ、もしかして、


「(さささ、さめ、では…!?)」


パニック映画とかでよく見る、海面から飛び出て迫り来る鮫のヒレ。こんな浅瀬で鮫なんて出るのだろうかと思いつつ、予期せぬ事態に驚いて無意識のうちに一歩後退する。円を描きながら、着実に私へと近付いて来る鮫の背ビレから目が離せない。確かに死にたいとは思ったけれども。鮫に食べられて死ぬ覚悟は出来ていない。ドクドクと不穏に高鳴る心臓の中、ザブン、と、鮫の頭が私の目の前に飛び出た。


「きゃああああ!」


ヤバい、食べられる。そう身構える私の思いとは裏腹に、大口を開ける鮫の中には、既に顔色の悪い男の人が居た。え…、えええ!?余りにもショックが大き過ぎて悲鳴を止める事が出来ないでいると、そのまま高波に呑まれて身体を持って行かれる。足が地面から離れて、その拍子にサンダルも脱げてしまったけれど。波に揉まれてそれどころでは無かった。身体がグルグルと捻れて目を開ける事も出来ない。想像していた何倍も辛くて、肺から抜け出た空気がゴポリと海面に上がった。あぁ、死ぬ。そう思った刹那、突然何かにガシリと腕を掴まれて強く引っ張られたのが分かった。てっきり沖に引かれているのかと思いきや、気がつくと足が砂浜についていて波打ち際まで引っ張られていた。…鮫人間に。


「ごほっ、ごほ…!」


雨に打たれながら激しく咽せる私の背中を、得体の知れない鮫人間がドンドンと叩いて介抱している。海水が目に入って痛い。肺にも水が入って、凄く凄く痛いし苦しかった。そんな私を心配そうに見下ろす鮫人間を、霞んでボヤける視界で必死に追い掛ける。


「…あなた、は、…」


一体…?そう訊ねる私に、鮫人間は軽く顔を振って、おもむろに私の足元を見やった。


「あ…」


サンダルを無くしてしまった私を気に掛けているのか。鮫人間がオロオロとした後、何の躊躇もなく海へと戻って姿を消したので慌てて後を追いかける。彼は一体、何なんだろうか。瞠目する私の目の前には、やっぱり鮫の背ビレ。悠々と泳ぎ回った末に私の元へと再び姿を現し、トボトボ肩を落としながら戻って来た。雨は先程よりも弱くなり始めていて。鮫人間の姿もよりハッキリ視界に映りはっと息を呑む。


「あの、」


どうやら私のサンダルを探してくれていたけど見つからなかったらしい。鮫人間は波打ち際に座り込むと、自身の履いていたブーツを脱いで私へと押し付けるのでジンと涙腺が緩む。


「ううん、貰えないよ」


私ね、死ぬつもりだったの。サンダルだって、無くなっても良かった。だってもう必要ないから。そう思うのに。鮫人間は頑なに私に靴を履かせようとして譲らない。結局、私の両足は鮫人間のくれたブーツによって保護された。海の水たっぷりでベシャベシャする。正直気持ち悪い。俯いてじっと鮫人間のブーツを凝視する私に、鮫人間はコツコツと私の肩を叩いて。海とは真逆の遠いコンクリートを指差した。大人しく帰れと言う事らしい。でも今更生きる気にもなれなくて動けないでいると、鮫人間が困った様に頬を掻いた後にギュッと私の事を抱き締めた。…冷たい。雨と海水に濡れた身体は冷たかったけれど。トン、トン、と私の背中を叩く手の平は優しくて、何だか無性に涙が溢れた。ポロポロと溢れて、止まらない。感情余ってそのまま咽び泣いてしまうと、鮫人間はただただ優しい力で私を抱擁していた。誰かに抱き締めて貰うなんて、久し振りかもしれない…。ある程度落ち着いて手の甲で涙を拭って俯いた。ほら、と、まるで促す様に鮫人間がゆっくりと離れていく。


「…うん」


鮫人間の靴は少し大きくて、ちょっと歩く度に中でチャプチャプと海水が揺れた。まるで波打ち際に足を浸しているみたいだ。彼は砂浜が途絶えるギリギリの所まで着いてきて、私の姿が見えなくなるまで見送っていた。何だか夢の様な出来事だったけど。鮫人間に貰ったブーツは確かに存在していたし、腕を掴まれた時に傷付いたのか。手首が赤くなってヒリついていた。ちょっと擦れただけでもヒリヒリと痛い。でも手首がヒリリと痛む度に、私は生きている事を実感したしあの時の鮫人間を思い出して感傷に浸る。ここに来て1週間以上の経った、ある日の事であった。



20220822


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