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声に出してみて
薄暗い部屋の片隅で于禁殿に抱きすくめられてしまった。部屋の輪郭がぼんやりと大きくなったり小さくなったりしながら揺れている。

いや。揺れているのは私の心臓か。埃っぽい湿った部屋の匂いと一緒に、于禁殿の甘い尖った匂いが鼻腔をくすぐる。早鐘を打つ心臓とは対照的に頭の中はやけに冷静だ。この状態をどう捉えれば良いのだろう。

「あの……于禁殿?」
控え目に名を呼んでみても彼からの返事はない。そればかりか一層強く抱きしめられてしまった。行き場をなくした両腕がなんとも心許ない。

「え……っと」
何をどう言うべきなのか。探れども答えは見つからない。そもそもいきなり無言で抱きしめられたのだから、その意図さえも図りかねる。

これはやはり男女の色恋沙汰、というものなのだろうか。そうだろうとは思うが、はっきりと自信を持って断言できないのは相手が『あの』于禁殿だからだろう。

いつもしかめっ面で配下にも自分にも厳しい常勝将軍。規律を重んじるあまりみなには陰で鬼とまで呼ばれている。そんな男に突然抱きしめられれば動揺しない方がおかしい。

さらに言えば彼とは恋仲でもなんでもないし、そんな気配を感じたことは今まで一度だってないのだ。

かと言ってこの状態が嫌なのかと問われれば答えは否である。私は彼に並々ならぬ信頼を寄せているし、尊敬もしている。

それが恋かといえば正確には違うのかもしれないが、于禁殿のことは嫌いではないのだ。好きか嫌いかで分類するならば、好きである。

そう、好きなのだ。意味を持って自覚してしまうと何とも言えない恥ずかしさに襲われた。誤魔化すように伸ばした両手で空中を何度か掻いてみたが、その動作すらも于禁殿は気にしていないようだった。

「……あのー」
再びの呼びかけで于禁殿はようやく顔を上げ、両腕を私の身体から離した。

急に背中から離れて行ってしまったぬくもりが、少しだけ名残惜しいなんて思ってしまう。そのまま彼は私の両肩に手を置きうなだれた。見上げて顔を覗き込むとその目はどこか焦点を失っているように見える。

「……すまん」
ようやくといった感じで于禁殿はそう云うと、重いため息をひとつ落とした。

その謝罪はどういう意味なのだろうか。続きを待ってみても彼の唇はしっかりと閉じられたまま動く気配はない。

私はどうするべきなのだろうか。このまま何事もなかったように平然と接すればいいのか。それとも愛の言葉でも囁けばいいのか。

「……そ、そろそろ戻りましょうか。探し物も見つかりましたし」
結局のところ臆病者の私は先ほどのできごとを水に流す選択をした。

問い詰めるほどの自信もなく、まして自分から言えるほどの勇気もない。もしもただの戯れであったならば目も当てられない。

今の関係に強く不満があるわけでもないし、彼が何も言わないということは特に意味のない行動だったのだと思うことにする。

そそくさと彼の脇をすり抜け、扉へと向かおうとすると突然手を引かれた。反動で思わず後ろにひっくり返りそうになる。なんとか踏みとどまって何事かと振り返ると、于禁殿がしっかりと私の手首を握っていた。

「……あのですね」
今度は文句のひとつでも言ってやろうと口を開くと、于禁殿は絶妙な間合いでそれを遮った。

「なまえ、私はお前に特別な感情を抱いている」
「へ?」
その言葉に呆気にとられ開いた口が塞がらない。

「お前の側にいるとその感情が日増しに強くなるのだ。もはや律することなど不可能だ」
いつもと同じ鋭い眼光が少しの迷いもなく私へと向けられている。その感情とは、つまり……。

「えっと……つまり、于禁殿は、私を──好いておられる」
言い聞かせるように言葉にしたつもりだったが、声に出した瞬間自分の顔が熱くなるのを感じた。

于禁殿に目をやると彼もまたわずかに顔を赤く染めている。治まっていた心臓が再び動きを早めた。先ほどよりも強く、早く鼓動するそれにひどく困惑させられる。

「お前は……私のことをどう捉えている」
身体を引き寄せられ、間近でそう問われた。

于禁殿の顔はもういつもとまったく同じで、いや、いつもよりもどこか不敵さを感じる表情だ。そこには照れも戸惑いもない。いやに獣じみた目つきに私はぶるりと身震いした。

「どう……って、好きか嫌いかで言えば好きです」
「そうか」

そのまま彼の腕の中に閉じ込められる。于禁殿の顔がふっと耳元に寄せられたと思えば、すぐにそこに熱い吐息を感じた。

「ならば、この先も私の側にいろ」
彼の低い囁きが耳からじんわりと血流に乗って広がり、全身を支配していく。火照った頬はしばらく冷めてくれそうにはない。

ゆっくりと近づいてくる于禁殿の唇を見ながらそんなことを考えた。
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