「さてはて、どうしたものですかな」
陳宮は天を仰いでからそう言い、深いため息を一つ盛大に吐き出した。
目の前にちょこんと座る少女に目線を戻すと、彼女は落ち着きなく大きな瞳をあちらこちらへと泳がせている。
体には麻で作られた縄が巻かれ、その姿はどう見ても罪人のそれであったが、彼女がそれを気にする様子はまったくない。
「あなたのお名前は?」
問うと少女ははっとしたように陳宮を見上げた。
「なまえです」
大きな双眸が陳宮を捉え逸らされる事はないまま、はっきりとそう答える。彼女から発せられた声は想像以上に幼く、それにまた陳宮は頭を抱えた。
戦の最中に陣営に突如として現れた少女、それがなまえであった。すわ、間者かと疑っていたが、幾ら兵士でごった返しているとは言え間者にしては彼女の姿はあまりにも目立っていた。
男ばかり、鎧を身につけた者達の中にたった一人誰も見た事のないような着物を身にまとって、隠れる様子もなく堂々と歩きまわっていたそうなのだ。
陳宮はしげしげとなまえを観察する。そう、確かに見た事もない着物だ。どのような作りかは分からないが、この国の、いや近隣の諸国であっても一度も目にした事はない物だった。
おまけに、陳宮はゆるりとかぶりを振る。おまけにこの露出の高さ。生白い足を惜しげもなく披露するような短い履き物は、やはりおおよそこの国の婦人とは思い難い。
では彼女はいったいどこから来たのか。なぜ容易に、誰にも咎められる事なく、この陣営に潜り込む事が出来たのか。考えども考えども分からず、彼はその答えを出しあぐねていたのである。
「なまえ、殿ですか」
「はい、そうです」
陳宮の問いかけに彼女からは歯切れの良い返事が返された。
「あなたがどうやってここへ入り込んだのか、まったく、まったくもって見当もつきませぬ。あなたはいったい、どこから来たのですかな?」
「日本です」
やはり歯切れの良い答えが返ってくる。
「にっぽん?」
その答えに陳宮はわずかに眉を顰めた。
(はて、いささかも聞いた事のない名だ)
聞いた事がない以上、それが実在する物か知る由もない。まして彼女が本当の事を言っていない可能性も多分にある。
「では、どうやってここへ入ったのですかな?」
その問いに対しては彼女は即答しなかった。
小ぶりな唇を窄め、視線を床へと落とす。その仕草が陳宮には、どう答えようか迷っているように見えた。
(実に、実に怪しい……返答次第では生かしてはおけませんな)
陳宮の物騒な考えに気づく様子もなく、なまえはちら、と彼に視線を戻した後、
「気づいたらいたんですよね」
事もなげにそう言った。
「気づいたら……」
予想外の返答に陳宮は面食らった。
誤魔化すにしては茫洋とし過ぎているし、命が掛かっているにしては投げやり過ぎる。そもそも彼女は自分が今置かれている状況を、微塵も理解していないのではないか。
呆れ果て、あんぐりと口を開いたままの陳宮を特に気に掛ける素振りも見せず、なまえはぼんやりとした目で続ける。
「ショッピングモールに友達と買い物に来てた筈なんだけど、おかしいな。どうしてこんな所にいるんだろう。ワンピースとブーツを買って、次はお昼にしようと思って、その前にトイレ行っとこうってなって……トイレ出たらここにいたんですよねぇ。私の荷物どこ行っちゃったんだろ」
どちらかと言えば独り言に近いそれを、やけにはっきりとした口調でのんびりと言い放つ。
恐らくここに来た経緯を言っているのだろうが、陳宮には彼女の話す言葉の半分も聞き取れなかった。なまえの声が小さかった訳ではない。言葉の意味が分からなかったのだ。
彼にとってなまえの発した幾つかの言葉は聞いた事のない、異国のそれであった。文官として、軍師としてそれなりに書物を読んで来た陳宮をもってしても、理解する事ができなかったのだ。
(いや、言葉だけではない)
陳宮はゆるゆると首を振る。なまえ、と名乗った彼女の存在そのものが理解できる範疇を有に越えてしまっている。
「率直にお聞きしますが、間者ではない、と?」
陳宮の言葉になまえは不思議そうに小首を傾げた。
「かんじゃ、ってなんです?」
「敵国の情報を探る者の事です」
「ああ、スパイの事か。違います。てかスパイって。どこの映画」
またしても訳の分からない事を呟き、彼女は何がおかしいのか一人吹き出した。その態度に陳宮は少なからず動揺する。
仮に彼女が間者だとして正直に答える筈もないだろうが、本当にそうならわずかにでも焦りを見せると踏んでいたのに、なまえにその色はちらとも浮かんでいない。
「女スパイか……かっこいいな」
ぶつぶつと呟き、口元ににやにやと笑みを浮かべている。この状況でも逃げ遂せる余裕があるのか、はたまた命を握られている事が理解できない阿呆か。
どちらにせよ陳宮には、彼女が得体の知れない人間に思えた。底の知れない、背中が薄っすらと寒くなるような気色の悪い感覚を覚える。
(これは……まこと、まこと困りましたぞ)
処刑か、放免か。陳宮は決めかねていた。
なまえと対面したときから迷ってはいたが、その迷いはここにきてより大きくなっている。間者だとして、何とか利用価値はないものか。
しかしもしそれ程価値がない人間ならば、ごく潰しを一人増やす事になる。戦において無駄な人材は一人でも減らしたい。
かと言って処刑するにしても、彼女の言い知れぬ存在感がそうと決断させてくれなかった。
「ところで」
なまえが不意に口を開いた。その口元には先程までの笑みはなく、きゅっと結ばれている。
陳宮が彼女に視線を投げて寄越すのを確認してから、
「失礼ですけど、あなたのお名前は?」
そう尋ねた。
「……私は陳公台と申します」
怪訝な表情で答えるとなまえはそれを小さく復唱する。瞬間その顔色がさっと変わったのを陳宮は見逃さなかった。
「おや、何か心当たり」
「ここってどこですか?いつですか?」
陳宮の言葉を途中で遮り、なまえは口早に聞く。先程までとは打って変わって彼女の瞳は真剣そのものだった。
結局陳宮はなまえを生かしておく事にした。どこなのか、いつなのか、の問いに答えた陳宮に対して彼女は一瞬顔に狼狽の色を浮かべたが、すぐに納得したかのようにつらつらと話し始めた。
曰く、ここは過去である。なまえのいた時代よりもおよそ二千年程昔らしい。まさかそんな事がとぎょっとする陳宮を余所に彼女の口は滑らかだった。
今現在陳宮たちの置かれている状況、数十年前に起こった──なまえのおよその年齢から逆算すると生まれる遥か以前──民衆には半ば忘れ去られているような出来事。
彼女の話す事柄は確かに矛盾がなかった。厳密に言えば多少違っている事もあったが、それは大まかな流れから言えば些細な事だ。
すべてを信じる訳ではなかったが、今すぐに殺してしまうのも早計だと思えた。ここはひとつ、生かしておき少しでも情報を引き出す。
彼女が言っている事が本当ならば、この呂布軍にとって有益な情報である可能性は高いし、嘘ならばいずれ綻びが出る。結論を出すのはそれからでも遅くはない。
「つまり、未来から来たって事です」
縄を解かれ、自由になったなまえは両腕を何度か大きく回しながらそう言った。
その眼にはひとつの曇りもない。頭で理解していてもはっきりと告げられると、やはりなんとも言えぬ違和感がある。
「ねえ、陳宮さん」
不意に名を呼ばれるが、それにも驚かされた。そちらの名は、名乗っていない筈だ。目を丸くする陳宮に彼女は悠然と続けた。
「陳宮さんたちが今してるこの戦い、たぶん負けますよ」
あまりにもあっさりと言い放つものだから、思わず陳宮は眉を顰めた。いくら縄を解いたからといって、いまだ彼女が命を握られている事に変わりはない。
そんな中で先程の発言は不遜であると取られても致し方ないというのに、なまえにそれを気にする素振りは一切なかった。
「負ける……ですと?」
(この陳公台がついている戦で負けると言うのか)
軍師としての自身を軽んじられたような気分になり、彼はにわかに憮然とした。
(ですが……ですがその可能性もない訳ではない)
そうなのだ。この戦には幾つかの憂慮すべき事があった。それをよもやなまえが知っている事はないだろうが、もし負けるとすればそれが要因となる。
まさかそれすらも彼女は知っているのだろうか。陳宮は顎に手をやり、しばし考え込む。
(ここはひとつ、試してみる事にしましょうか)
どう聞いてやろうかとなまえに目をやると、彼女は心痛な面持ちで何やら頭を抱えてうんうん唸っていた。ややあってから顔を上げ、晴れやかな顔でぽんと手を叩く。
まるでこの場には彼女一人しかいないかのような態度に陳宮は毒気を抜かれたような気分に陥った。
「そうそう、お城が次々と陥落しちゃうんですよ!」
人差し指を立て、なまえが言い放った。
彼女の言葉に陳宮は驚愕の色を瞳に浮かべる。しかし彼はすぐにそれを掻き消し、唇の端を持ち上げ不敵に笑った。
「それは実に、実に興味深いお話ですな」
思いの外良い物を手に入れたかもしれない。彼はそう思う。降って湧いたような僥倖だ。上手く彼女を使えば、この乱世を掌握する事も可能なのではないだろうか。
そんな陳宮の思惑を知ってか知らずか、目の前の少女はきょとんとした後、満足そうに大きく頷いた。
「お話、しましょうか?」
「ええ、是非とも、是非とも!」
陳宮が大仰に言うと、なまえはにんまりと笑みを浮かべる。
「じゃあ、私のお願いも聞いてください」
その言葉に陳宮は内心やれやれと思った。少し知恵が足りなさそうに思えたなまえでも、駆け引きくらいはできるらしい。
この程度であれば簡単に扱えるとばかり考えていた彼は、予想外の反応にややうんざりしたがそれをお首にも出さず答える。
「構いませんぞ。なんなりと申してくだされ」
命の保証か、金品か、はたまた地位でも欲しいのか。どれにしても最終的に利用価値がなくなれば、彼女自身の価値も無くなる。それまでは望み通りの物を与え、操り、良いように動いてもらわねば。
飄々とした表情とは裏腹に、軍師として冷徹なまでになまえの今後の使い道を考えながら陳宮は彼女の言葉を待った。
「何か──食べるもの、頂けますか?」
「はい?」
陳宮の、場にそぐわない素っ頓狂な声が響く。
「いやあ、お昼食べ損ねたからお腹空いちゃって……なんかこう、軽い物でもいいんですけど、でもできればがっつり食べたいですねぇ。お肉とか、いや野菜でもいいんですけど、お肉の方が嬉しいです」
頭を掻きながら口を窄めた後、なまえは大きく笑った。今度こそ、本当に予想外の言葉に陳宮は口をあんぐりと開けたまま固まる。
(これは……なんという)
しかしどうしてなかなか……。
なんとも言えない感情が彼を支配する。自分の考えている事、彼女を利用しようという思惑。確かにうまくいっているはずなのに何故かしてやられたような感覚になる。
笑いが込み上げてくるのを堪えきれず、陳宮は吹き出した。その笑い声になまえは不思議そうに小首を傾げた後、自分が笑われているのだと気づき、恥ずかしそうに少しだけ笑みを浮かべる。
「すぐに用意させましょう。それまでは──どうぞ、どうぞなまえ殿のお話をお聞かせくださいませ」
ひとしきり笑った後陳宮は大仰に両腕を広げ、なまえに混じり気のない微笑みを向けた。
そこにはもう、計算も打算もない。あるのはただなまえという少女に対する純粋な興味心だけであった。
国ひとつ滅ぼしかねない情報量を有するなまえ。しかしながらそれを差し引いても、陳宮に取って彼女という人間は実に心くすぐられる。
目の前で忙しなく表情を変えるなまえを見ながら、彼はなんとも言えない充足感を感じた。