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さよならではなくても
立ち尽くした私は放心状態だった。

濡れてぬかるんだ地面。跳ねた泥が具足や鎧にこびりつき、乾かぬうちに新しい泥が幾重にも飛び散っている。

目の前で力なく項垂れる伝令兵の姿。彼の体もまた泥に塗れていた。

「今……なんと、言った?」
乾き張りついた唇から絞り出した声は掠れ、情けなく震える。

「于禁、将軍が……関羽軍に──投降したとの事っ」

伝令兵が叩きつけるように叫ぶ。頭の中でぐわんぐわんと鐘が鳴り、同時に激しく揺さぶられたような衝撃が走った。

(馬鹿な)

何かの、間違いだろう。そう言いたいが声が出ない。この苦境の中、情報が錯綜してもおかしくはない。敵側の流言という事も考えられる。

(そうだ、何かの間違いだ)
そう思ってみても頭の片隅でそれを否定する声がする。

「ホウ徳殿は」
共に闘っていた筈だ。彼が無事であればあるいは──。

「はっ……捕えられた後、投降に応じず処断されたと!」

だが伝令兵の口から聞こえたのは無慈悲な言葉だった。

(嗚呼……)

眩暈にも似た感覚に足元から崩れ落ちそうになる。流言などではない。事実、彼らは敵の手に落ちた。震える体を必死に奮い立たせ歯を食いしばる。

(何故……)

「何故だ……文則」
ゆるゆると首を振り目を閉じると、瞼の裏に彼の顔が浮かび上がった。この世で誰よりも信頼し、誰よりも愛する男。

(何故)

疑問ばかりが渦巻く。誰よりも規律を重んじ、この国に尽くしていたではないのか。鬼と呼ばれようと法を奉じ、信義を貫いてきたではないか。

この国を、この魏を誰よりも愛し守ろうとしたのは──お前ではないか。

「急ぎ他の将軍にもお伝えしろ」
踵を返し伝令兵に告げる。

「はっ、なまえ殿は」
「ここに留まり敵軍を食い止める」
「は!」

短い返事の後、彼の足音が小さくなり遠ざかっていく。剣の柄を握り直し、頬に伝う滴を腕で拭った。ひんやりと冷たくなった顔と裏腹に体は燃えるように熱い。

(何故、お前は)

ホウ徳殿は忠義を貫き死んだ。握った手に更に力が篭もる。視界の端に駆けて来る敵兵が映った。

生きてはいる。だが彼はもうこの国の将としては死んでしまった。捕えられ、忠義を尽くさず、敵に情けを乞うなどと。もはや私が愛した男はどこにもいないのだ。裏切り者め。

何事か喚き迫ってくる兵と切り結びながら、ふつふつと怒りが噴出してくる。その怒りにまかせ剣を振るった。

誰のものとも分からぬ怒号が飛び交い、血飛沫が舞い散り、断末魔が響き渡る。ただ無心で、何度も何度も斬りつけ、突き刺し、頭の中を空にする。

赤い液体が体に、顔に掛かる。泥水が跳ね口の中に入っても、私は動きを止めない。止める事などできない。ごろごろと転がり倒れ折重なる人間だった物。

何も考えない、何も感じない、言い聞かせて敵の動きに神経を集中させる。耳障りな叫び声に虫唾が走った。


    *


幾人切り捨てたのだろうか。あらかた敵兵を片付け一息つく頃には、私の息もだいぶ上がっていた。肩で息を繰り返しながら、転がった死体を一瞥する。

生きている。私はまだ、生きている。 どっと力が抜けその場にへたり込んだ。冷たい水と土の感触に足が曝される。それすらも些細な事だ。

「何故なの」
その声はかさかさと枯葉のように掠れきっていてほとんど音にならない。

どこか遠くでけたたましい喊声が上がり、剣戟と馬蹄の音が轟いている。それでも指先一つ動かす事もできない。まんじりともせずただぼんやりと空ろに目の前の光景を眺め続けた。

降り出した雨が全身を打ちつける。火照った体が熱を失っていくのと同時に、頭も冷静さを取り戻し再び現実が突き付けられる。

裏切りだ。これは、国に対する、主君に対する、私に対する裏切りだ。

「何故……何故っ!」
押し込めた筈の怒りが再び心を埋め尽くしていく。

「──何故裏切った!文則っ!」

腹の底から絞り出した声は叫び声と言うよりも悲鳴に近かった。拳を握り力任せに地面へと叩きつける。粘着質な水音とともに両手に痛みが走った。

けれど体の痛みなど今感じている胸の痛みに比べれば取るに足りない。それを振り払うように幾度も拳を振り下ろす。

どうして(どうして)どうせなら(どうせなら)敵に降るなら(それでも)いっそ自ら首を差し出して(生きていてくれるのならば)命を断って(私を共に)忠義を貫けば(連れて行ってくれれば)良かったのに──。

置いて行かないでよ。例え不忠の輩と呼ばれても、裏切り者と謗りを受けても、罵られ罵倒されても、あなたがいればそんな事なんて事ないのに。あなたが来いと言うならば何処へだって付いて行くのに。

文則あなたさえいれば私は他に何もいらない。あなたがいないこの場所でどうやって過ごしていけばいいの。どんな顔をして叶わぬ思いを抱え続ければいいの。

私を置いて行くくらいなら、こんな思いをさせるくらいなら、最初から愛しているなんて言わないでよ。抱きしめたりしないで。名前を呼ばないで。

私を弱く脆くさせたくせにどうしてあなたはここにいないの。

「文則っ……文……則!」
迎えに来てくれる筈などないと知っていながら、繰り返し彼の名を呼ぶ。力の限り何度も何度も。

お願い。どうかお願いだから戻ってきて。すべて嘘だと言って。その鋭い目で私を射抜いて。名前を呼んで。大きな腕で大きな胸で抱き締めて。

お願いお願いお願いお願いします。どうか時を戻して。私を彼の元へ連れて行って。

雨に混じって両の眼から雫がぼたりぼたりと零れ落ちる。それを止める術を私は知らない。

「置いてくなんて──許さないから」

私が私であるのはあなたがいたからこそだったのに。最早あなたは去ってしまった。例えいつか相見えるとて二度と同じようには微笑み合えない。

私とあなたの未来は閉ざされた。
道は違えた。
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