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苛立ち
体に突き刺さるような激しい雨の中を走り抜け、なんとか私は屋根のある場所まで辿り着いた。

朝から使いに出ていたのだが、用向きを終えもうじき城だという所で急激に機嫌を損ねた空に降られてしまったのだ。城を出る時は雲ひとつない青空だったというのに。

頬に流れてきた滴を指ですくいあげながら、ため息を洩らす。

見上げた所ですでに空は分厚く黒い雲に覆われ、青色などわずかにも見えなかった。


不意に視界に見慣れた後姿が飛び込んでくる。ああ、あれは。

直感的に誰なのか分かっているくせに、頭はわざと時間を掛け、さも今把握したとでも言うように名前を浮かび上がらせた。

(法正殿……)
誰かと話をしているのだろうか。

こちらからは植えられた花や低木に遮られ彼の姿しか見えない。たまに動かされる手や首が、彼の向かい側に誰かがいるのだと教えてくれた。

彼らは背後の私に気づく様子もなく、言葉を交わしている。

(何を話しているのかしら)
気にはなってもひっきりなしに降り続ける雨のせいで、声がこちらまで届く事はない。

法正殿は軍師だ。その知にはあの諸葛亮殿も一目置いていると聞いた。そして軍師でありながら武はそこらの下手な武官よりも優れている。この蜀にとってなくてはならない人物。

対して私は武以外にさして取り柄のない武官だ。それこそ下手な武官というのは私の事も指すのかもしれない。どこまでいってもうだつの上がらない、つまらぬ人間。

そんなつまらない人間であるのに、法正殿は私に声を掛けてくれた。大した内容ではなかったように思う。

ただその決して優しくはない言葉がひどく私の心を揺さぶった。その一言がまるで私の人生を集約しているような、私のすべてを理解しているかのようなものだったのだ。

(今にして思えば)

その言葉に深い意味などなく、取りとめのない雑談のひとつだったのだろう。法正殿が今もそれを覚えているとは思えない。

けれど私はその瞬間から彼を特別な目で見るようになってしまったのだ。困った事だが理性でどうにかなるものではないという事を、身を持って教えられた。

不意に冷静さを取り戻し、その感情を投げ捨てようとするが、法正殿に会う度にそれは更に大きさを増して私の中に宿ってしまう。すでに手遅れなのだ。

ふと、水音に紛れて一際高い声が耳に届く。その事で法正殿が話しているのが女性であると気づいた。

瞬時に全身の血液が心臓に一気に流れて、息が止まってしまいそうな不思議な感覚に捉われる。

(……誰なのだろう)

視線の先の男を見つめ、その挙動をつぶさに観察する。時折小刻みに揺れる肩が、誰とも知らぬ女性との会話が弾んでいるのだと主張していた。

法正殿がにこやかに談話する姿は正直想像できない。いつも不敵に片頬をつり上げ、笑う顔しか見た事がないのだ。

背中しか見えない分、彼が満面の笑みを浮かべているのではないか、それを女性に向けているのではないかと心が波立つ。

(誰、なのだろう……)

私が知る由もない。だがここで身を乗り出し、その姿を確認する勇気もなかった。見てしまったら最後、私はきっと嫉妬に食い潰されてしまう。

唇を噛み締め降りすさぶ銀色の幕越しに法正殿の背中を見つめる。

合図を、

(気づいて)

送る。

暗くざらついた感情がゆっくりと首をもたげる。心をすべて舐め尽くすようにじわりじわりと押し寄せてくるそれを、どうにも振り払う事ができない。

──雨音が耳にこびりつく。

(あなたはまだ気づけないのね)
じっとりとまとわりつくような空気と、肌に張りついた服が不快感を加速させる。

胸を掻き毟りたくなるような、焦燥感。苛立ち。髪から滴り落ちた水が、睫を濡らす。瞬きも忘れて睨むように彼の背へ視線を送る。

ゆっくりと法正殿が身をよじりこちらに視線を向け、おやという顔をした。不意打ちとも言えるその動きに目を逸らす事もままならず、そのまま視線がかち合う。

見ていた事を悟られてしまったのだろうか、何とも言えない気まずさが込み上げ、私は目を伏せた。雨音に混じり彼らの声が途切れ途切れ聞こえてくる。

「では……正様……の機会……」
「ええ……そのよ……」

今すぐ耳が爛れてしまえばいいのに。そう願っても無駄な事だ。私の耳はしっかりと声を拾い、それが何度も頭の中で反響している。

透きとおった、凛とした声だった。それだけで女性が美しく高潔な人だと思い知らされる。

泥のはねる音が近づき、伏せていた目に法正殿の足が映り込んだ。

「これはこれは、なまえ殿じゃありませんか──このような所で一体何を?」

普段と何一つ変わらない、少々おどけたような物言いに苛立ちが増す。

「使いの帰りに降られてしまったのよ」
「なるほど……で、雨宿りですか」
「ええ、まあ」

喉の奥で笑いを噛み殺しているのだろうか。くつくつという音が耳に響く。私の苛立ちに気づいていないのか、それとも知った上での態度なのか。私には判別する事はできない。

「それにしても……」
法正殿はそう言い、押し黙った。それでも今は彼の顔を見る余裕はない。平静さを欠いている事は自分でも分かっているのだ。

反応しない私に痺れを切らしたのか、法正殿の靴が泥を跳ね飛ばしこちらへと近寄る。地面への視線が遮られ否が応でも彼の服が目に入った。

「それにしても、人の逢瀬を覗き見とは良いご趣味で」

頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。心臓が鼓動を早め今にも破れてしまいそうだ。

けれどその言い方はやはりどこか冗談めいていて、本気ではないのだと知る。

喉がきゅっと音を立てた。その動揺を悟られないよう、努めて冷静な声を出す。

「あら、気になるのならお部屋でなさればいいのに」

その言葉に法正殿はおやおやといった様子で息をひとつ吐いた。

「ずっと見てたでしょう?視線……感じてましたよ」

不意に彼の体が近付いたと思ったら、耳元に口を寄せ囁かれた。全身がまるで石になったかのように硬直する。

彼にとってはこの言動すらも戯れのひとつなのだろう。それでも頭はどこか冷静で、どうせならこの思いに気づいてくれればいいのになどと考えていた。

そうしたらこんなにも苦しまなくてすむ。

(気づかないなんて、罪だわ)

「そうね、その通りよ。あんまりにもそのお背中が愛しくて」
視線を上げ彼に笑みを向けると、満足したのか法正殿は片方だけ口角をつり上げ、くぐもった笑い声を洩らした。

「困りましたねえ、俺も罪な男だ」
「本当。どうしてくれようかしら」
「おお、怖い怖い。何かするならどうぞお手柔らかに」

その声は明らかに今のやりとりを楽しんでいる。言葉の綾だとでも思っているのだろう。法正殿の体がゆっくりと離れ、彼はそのまま踵を返す。

背中が水音と共に少しずつ遠ざかっていく。私は小さくなっていく背を眺める事しかできない。彼と女性との関係を問いただす事も、この思いを本気だと告げる事も、何一つできない。

頭の中がぐるぐると渦を巻く。──雨音。心にぽっかりと空いた穴から暗闇が顔を覗かせ、落ちてくるのを今か今かと待ち侘びている。──合図を送る。

濡れて額にへばりついた前髪をかき上げながら、その感情に身を任せる。──一瞬の。法正殿の姿を瞼の裏で思い浮かべる。──静寂。

「落ちてしまえ」

呟いた言葉は小さく、雨音にかき消されてしまう。動けない。この場所からも、この感情からも。

痛いほど降りしきる雨はまだ止みそうにもない。
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