さて、私と文則の祝言はどうなったか。結果だけ言うとまだ夫婦にはなれていない。
蜀や呉、他の勢力との戦は熾烈を極め、兵や将軍は息つく間もなく次から次へと各地に出向く日々。文則も例外ではなく、今や顔を合わせる事すら数える程しかない。
会えない事は仕方がないと割り切っても、やっぱり戦となると心中穏やかではない。どうぞどうぞ無事に帰って来ますようにと毎晩祈るばかりだ。
文則に会いたい。帰って来たら花見をしよう。きっと彼が戻る頃には満開の桜が開いている筈。
何か作ろうかな。料理はした事ないけど、習えばなんとかなるだろうし。他の人も誘おうかしら。でも二人きりにもなりたいし。
とりとめなく想像を膨らましながら、服をはたく。埃が舞い散りかび臭さが鼻を刺激した。
文則に会えず、他の武将も出払い、暇を持て余した私は書庫を掃除している。以前文則が、乱雑で使い勝手が悪いとぼやいていたからだ。
確かに、汚い。棚には書簡やら何やらが無造作に積まれ、奥の方は埃がもっこりと積もってしまっている。そんなに広くないとは言え、これをすべてきれいにするには相当骨が折れるだろう。みんな見て見ぬふりする訳だ。
もちろん、許可は取ってある。お父様は笑いながら大層な物はないから好きにしろと仰ってくれた。城外へ無断で抜け出すより余程有益だ、と。
あのなまえ逃亡事件以来、私には常に監視の目が光っている。一人にさせないよう言われているらしい。
おかげさまで次々と武将や女官たちが入れ代わり立ち代わり、退屈しない日々だ。反省はしてるし、二度と文則に迷惑は掛けられないからもうしないのに。よっぽど信用されてないのね。
「なまえ殿、いらっしゃいますか?」
二つ目の棚を拭き終わると同時に扉が開けられ、遠慮がちに声を掛けられた。
目を向けると、徐庶殿がこちらを覗き込んでいる。
「あれ? どうかした?」
「いえ、曹操殿になまえ殿を手伝ってやって欲しい、と」
やっぱりまったく信用はないらしい。
「えー。一人でできるのに」
思わず不満を洩らすと、徐庶殿は曹操殿なりにご心配されてるんですよと、苦笑した。
*
棚は一通り拭き終わり、書簡を戻す作業をする。高い所は俺、低い所はなまえ殿。
ちょこちょこと動くなまえ殿はまるで小動物だ。その姿に思わず頬が緩む。
「やっぱり二人でやると早いね」
「そうですね。思ったより早く終わりそうです」
なまえ殿はすごい。きっちりと埃を拭き取り、大小様々の書簡を隙間なくきれいにまとめていく。
「徐庶殿すごい」
「えっ……」
不意に言われ、驚きを隠せなかった。なぜ、と問うよりも早く彼女は言葉を続ける。
「ぱっと見ただけで何て書いてあるか分かるんだ」
「え、ええ。一応学んだ事ばかりですし」
「すごいねぇ。頭いいんだねぇ。私、中身確認するのにすごく時間かかっちゃうよ。何書いてあるかさっぱり分かんないんだもん」
そうだろうか。
「俺なんか……ちっとも」
学べば誰でもある程度は覚えられるだろう。彼女はその必要がなかっただけだ。
大切なのはその学の使い道、だと思っている。どこでどうやって使うかは本人の出来次第だ。残念ながら俺の出来はあまり良くないが。
「前から思ってたんだけどさー」
「はい」
「どうしていっつも俺なんか、って言うの?」
「えっ……」
「自分の評価低すぎない?」
なまえ殿はこちらへ体を向きなおす。その視線が真っ直ぐに俺の目を射抜く。心の中まで見透かれそうな眼差しに、彼女から視線を逸らした。
なぜ、そんな事を言い出すのだろう。あまり嬉しくない話題に心が曇る。
「私は徐庶殿すごいと思うけどなー。頭いいし、物腰も柔らかいし」
ね?と言いながらなまえ殿は書簡を手渡してきた。大きな瞳はいまだ俺を捉えたままだ。
「買い被りです……俺なんて」
「ほらほら、またそう言う」
細い指が伸びてきて、俺の口元を指差す。無意識に言ってしまった『俺なんて』という言葉を封じるように、彼女の人差し指はくるくると回転させられる。
「あ……」
「たまには根拠のない自信も持ってみたら?」
可憐な唇が弧を描き、くすくすと笑い声が洩らされる。それと同時に黒い髪が僅かに揺れた。
お美しいな、頭の片隅にそんな思いがよぎる。こんな方の隣に俺なんかがいていいんだろうか。よく分からない罪悪感が首をもたげる。
宙を弄んでいたなまえ殿の指がふいに、俺の頭へと伸ばされた。それと同時に彼女の体も近づいてくる。
「なっ……なまえ殿?」
焦る俺と裏腹に、彼女は真剣な表情でこちらを見ている。
「動いちゃだめ」
近づいて来る顔に心臓がどきりと高鳴った。これは一体どういう状況だ。
ふわりとかぐわしい香りが彼女から漂ってきて鼻腔をくすぐった。その指が髪に触れる感触がする。より一層近づけられた顔。
煽情的な赤い小さな唇に瞬きを忘れる程目を奪われる。ごくり、と喉が音をたてたのが自分でも分かった。
「取れたー」
ものすごく嬉しそうになまえ殿はけたけたと笑う。え?と思い彼女の指を見ると大事そうに埃の塊がつままれていた。
大物だー、とか言いながらその感触を楽しんでいる。ほ、埃ですか。思わずがっくりと力が抜けた。一瞬でも色事を思い浮かべてしまった俺を殴り飛ばしたい。
「どうしたの?」
相変わらず無邪気に埃と戯れる姫君に、少しばかり腹が立つ。この方はきっと俺のようになんでもないことで惑ったりしないのだろう。
皆から愛され、自分の感情に素直で、好き勝手に生きている。俺にはないものをすべて持っている。
だけど、それがひどく魅力的だ。
「いえ……なんでもありません」
「大丈夫だよ、徐庶殿は。お父様は本当に有能な人しか欲しがらないんだから」
根拠があるようでないような事を彼女は歌うように囁く。ただの世辞だと分かっていても、その言葉が胸に染み込んで俺の心を溶かしていくような気がした。
向けられた細い肩を見ながら、彼女が欲しいな、やおらそんな事を考える。俺らしくない、自嘲気味に笑うがそれでもまぁたまにはいいだろう。
「さあ、残りを片付けてしまいましょうか」
そんな思いに気づく事なくなまえ殿は無邪気な笑みを浮かべる。
ああ、今すぐにでも彼女を俺のものにできたら。