侍女の衣装を頼み込んで貸してもらい、厩舎から馬を拝借し、城下町へと辿りついた私は困り果てた。
なぜここへ来るまでに思い至らなかったのか甚だ疑問だ。
文則がどこにいるのか分からない。思った以上に町が広い。そりゃそうだ。町なんだから。城なんかと比べ物にならないよな。しらみつぶしに探そうものなら陽がくれてしまう。それでは本末転倒ではないか。
少々肩を落としたが、すぐに思い至る。見つからなければそれでよしとしよう。ちょっと見て回って、買い物でもして帰ろう。遅くならなければ、無断で抜け出した事も知られない筈だ。
その辺の人に聞けば文則の場所が分かるかもしれない。一応軍の人間で将軍だし。目立つし。
ひとまず馬を預け場に繋いで貰い、散策する事にする。馬場の主人に文則を見なかったか聞いてみたが、知らぬようだった。
*
初めての町は想像以上に楽しい場所だった。市には露店が立ち並び、可愛い簪やら服やらが安価で売られている。食事処では美味しい家庭料理が出される。昼ご飯を食べた後だと言うのに、しっかり食べてしまった。さすがに酒場は入らなかったが、いつかは行ってみたいものだ。
心ゆくまで町を堪能したのはいいのだが、肝心の文則に行き当たらない。何人かに訪ねてみたがすべて不発に終わってしまった。
というか、文則の移動速度が早すぎる。あっちと思えばこっち。こっちと思えばあっち。なかなか追いつけないでいるうちに、結局かなりの時間がかかってしまったのだ。
太陽はすでに傾き始めている。さすがにそろそろ戻らなければ侍女達に知られてしまうかもしれない。大事になっては面倒だ。文則を見つけられなかったのは残念だが仕方ない。また明日会いに行けばいいだけのことだ。
来た道を戻ろうとして、はっとする。いつの間にか細い路地に入り込んでしまったらしく、自分がどこから来たのかさっぱり分からなくなっていた。
適当に見当をつけて進んでみるが、道はどんどん悪路になり、建物も古い粗悪なものへ変わっていく。行き交う住人も明らかに質が違って見えた。
あからさまに睨み付けられたり、顔を顰められる。私の中のないに等しい危機感が警鐘を鳴らす。ただでさえ見た事のないよそ者なうえに、彼らからすれば上物の服を着た小娘。
小金でも持っているように見えるかもしれない。下手をすれば、という焦りに汗が吹き出す。
「あの、すみません」
近くに立っていた恰幅のよい女性に声を掛けるが、じろりと睨まれ忌々しそうに吐き捨てられる。
「何だい、あんた。よそ者はこんな所来るんじゃないよ!」
そしてそのまま不快そうに肩を揺らしながら家の中へと姿を消してしまった。
え、えー。道を聞きたかっただけなのに……。想像以上の冷たい態度に暗い気持ちが更に暗くなってしまった。思わずその場で立ち尽くしてしまう。
「どうかしましたか?」
はっと気づくと、若い男がこちらの様子を伺いながら、少しずつ距離を詰めている。
「み、道に……迷ってしまって」
ひょっとしたら物盗りかもしれない、と警戒を強める私に、彼はなんだとでも言うように訝しげな表情を緩めた。
「お連れの方はいないんですか?」
「……はい」
「お一人でこんな所へ。ここではさぞお心細かった事でしょう。よろしければ案内しますよ」
先程までの顔とは打って変わってにこやかにそう言う。悪い人ではないようだ。むしろいい人だ。その態度にほっと胸を撫で下ろす。疑ってしまった事を心の中で詫び、お願いしますと頭を下げた。
案内してくれている途中、彼はこの地の話をしてくれた。表はそれなりにやっているが、この場所のような所は手のつけようがないのだと。
貧困にあえぎ、罪を犯す者も少なくないらしい。みんなもう諦めてしまってるんです、彼はそう悲しげに呟いた。
城を出ない私はこんな所がある事を知らなかった。明日の食べる物にも困る生活をしている人がいるなんて。呑気な自分に腹が立ち、とてつもない罪悪感に襲われる。
「あ、すいません。ちょっと待ってて貰えますか? 取ってきたい物があるので。ここ、私の家なんですけどね」
照れくさそうに笑う彼が指差したのは家というにはあまりにも雑な作りのあばら家だった。
どうぞ、と返し辺りを見回す。結構歩いたと思ったが、まだ表通りには出ないらしい。それどころか、所狭しと立ち並んでいた家達も、今はぽつりぽつりとあるだけだ。人影も見えず、何となく心許ない。
「あのー、なまえさん」
呼ばれ振り返ると同時に腕を引っ張られ、あばら家に押し込められた。勢いそのまま地面へと体が投げ出される。
「ほあっ!」
固い土の感触に腕がさらされる。痛みと同時になぜという疑問と怒りが込み上げる。
「何するんですかっ!」
上半身を起こし振り返るが、そこに案内してくれていた青年の姿はない。その代わりと言ってはなんだが、数人の男が私を取り囲むように立っていた。
「威勢がいいねぇ、お嬢さん」
にやついた男に見下ろされる。騙されたと思い至るも時すでに遅し、だ。あんな人の良さそうな顔しておいて、えげつないことするなあの青年。最初っから案内する気なんかなかったって事か。
「お金なら持ってないから」
立ち上がり服についた埃を払いながら、できるだけきつく見えるよう彼らを睨みつける。だが彼らは怖いねぇ、なんて馬鹿にしたように笑ったままだ。
「お前、いいとこの娘かなんかか?」
「だったら何。お金はないってば」
「俺達が欲しいのは金じゃねぇよ」
お金じゃない。じゃあなんだ。服か。確かにこれは売れば多少はお金になるだろう。いや待て、それも結局お金じゃないか。頭を必死に稼働させる。だが、男の一人が発した言葉で理解してしまった。
「この女、態度はふてぇがよく見りゃ結構上玉じゃねぇか」
どうもこれは相当まずい展開だ。逃げ出そうにも出口は男達に塞がれている。部屋を見回した所で武器になりそうな物もない。
「逃がさねぇぞ。諦めて俺達と仲良くしようじゃねぇか」
できる訳がないだろう。思わず後ずさりするが、じりじりと彼らは距離を詰めてくる。
気づけば背後に壁が迫っていた。あっという間に壁際へと追いやられ男たちに囲まれる。鼻息荒く、舐め回すような目つきで私を見下ろしている。酒臭い息に吐き気が込み上げた。
何も知らない子供ではない。想像もしたくないが、これから何をされるのか嫌でも分かってしまう。心臓がばくばくと激しく音を立て、視界がぐにゃりと歪む。なんで城から出てしまったんだろう。激しい後悔の念が押し寄せた。
「おいおい、さっきまでの威勢の良さはどうしたよ」
「びびっちまってんのか?」
「もっと抵抗してもいいんだぜ? そっちの方が燃えるしな」
「もしかして生娘なんじゃねぇか!?」
「うお! まじかよ!」
「安心しな。すぐあんあん言わせてやるからよ」
男達が口々に言い、下卑た笑い声をあげる。下品なやつらだ。この男達は一体何人の女を泣かせてきたのだろう。泣いて許しを乞うても、こいつらは聞き届ける事なく虐げたのだろう。
彼らの言葉を聞いているうちにすっと心が冷めていくのを感じた。そもそもこうなったのも自業自得なのだ。腹をくくれ、なまえ。例え穢されたとしても一矢報いる。必ずこいつらには罰を与えてやる。
「喋るな、耳が腐る。お前は息が臭い。いいかよく聞け。私の名は曹なまえ──この魏国の魏王、曹孟徳の娘だ」
そう言うと彼らは一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑い出す。
「なに言ってんだ、こいつ」
「そんな虚言で俺達が騙されるとでも思ってんのかよ!」
「思ってる訳ないでしょ、馬鹿なのお前」
名乗ったのは自分を奮い立たせるためだ。今からこいつらに何かされたとして、決して屈しないために。絶対に負けない。口をきゅっと力いっぱい結ぶ。
もうやっちまおうぜ、生意気な女だ、男達はいきり立つ。四方八方から腕が伸びてきて私の体を地へと組み伏せる。服が引き裂かれ肌があらわになっていく。体を這う男の手が気持ち悪い。
全身がぞわりと粟立ち、思わず叫び出しそうになるのを歯を食いしばって耐える。絶対に声を出すものか。泣いたりなんかしない。
ふ、と文則の顔が浮かぶ。ああ、また怒られちゃうな。胸がちくりと傷んだ。ごめんなさい、文則。ごめんなさい。
男の手が下着へと伸びる。ぎゅっと目を閉じた瞬間、破壊音が響いた。
時が止まったように皆一様に音のした方へと顔を向ける。私が連れ込まれた扉が見るも無惨に粉砕されていた。
「ここで何をしている」
文則の声が響いた。なぜここに、と問うよりも先に男達が喚き出し文則へと詰め寄って行く。
「なんだ、おめぇ!」
「引っ込んでろ! 痛い目見てぇのか!」
その姿を文則は冷ややかな目で見下ろす。
「お前達の事はすでに既知だ。然るに腕ずくで女人を連れ込んだそうだな。そのような所業、断じて見逃す訳にはいかぬ」
そう告げるとちらりとこちらへと視線を移した。怪訝そうに眉を顰め、すぐに驚きの表情を浮かべた。
「なまえ? なぜここに……」
言いかけ私の体へと視線が移ったと思われた瞬間、その目が見開かれ、顔は鬼のような形相に変貌していく。
「下賤の輩め……! 粛清してくれる!」
言うが早いか彼は男達を次々と叩き伏せる。為すすべもなく彼らは地面へと沈んでいく。肉が裂け血が飛び散り骨が折れるような音が響く。
それを私はただ見る事しかできなかった。倒れ込み呻き声をあげている男にも容赦なく鉄槌が下される。
誰一人動かなくなってから文則は私へとゆっくり歩みを進めた。私の手を取り立ち上がらせ、彼は自分の着けていた外套を羽織らせてくれた。
今更ながら恐怖が沸き上がり、体中が小刻みに震える。文則の表情は依然として厳しいままだ。
「なぜ、ここにいる」
絞り出すように彼が問いかける。
「文則に……会いたいと思って。城を抜け出したの」
「何をされた」
「み、未遂。服破かれただけ」
「嘘ではないだろうな」
「ちょっと触られた」
そう言うと文則の表情がみるみる曇る。いたたまれなくなり、視線を逸らした。
「文則は……どうしてここにいるの?」
「そこにおられる婦人が私の元へ走って伝えに来られた。娘子がこのあたりの不埒者に着いて行ったと」
扉があった場所に目をやると、先程道端で声をかけた恰幅のよい女性が心配そうにこちらを覗いていた。
「将軍様がいらっしゃるとたまたま聞いてたもんでね。……あんた、大丈夫かい?あんまりにもきれいなお嬢ちゃんだったから帰るよう促したつもりだったんだが。私が表まで連れて行くべきだったね」
「いえ、おかげで助かりました。本当にありがとうございます」
彼女に向けて深々と頭を下げる。私のそれを見て安心したように笑みを浮かべた。
「いいんだよ。あんたが無事ならそれで良かった。どれ、代わりの服を取ってこよう。ぼろだけどそれよりはましだろう」
そう言い残し、彼女は体を引っ込めた。刹那、文則に抱きすくめられる。痛い程に力が込められる。
「……文則?」
「以前から少々頭が足りぬと思っていたが、これ程とは思いもよらんぞ」
失礼な。せめて考えが足らないって言って欲しい。突っ込みたいが強く抱き締められているせいで声が出せない。
私、助かったのか。文則の温もりと鼻腔をくすぐるにおいに安心してどっと力が抜ける。文則が私の名前を呼んでいる。
大丈夫、少し眠いだけ……。伝えようとしたが声にはならず、急激に意識が遠のいていった。
*
誰かが手を握っている。何度も力を入れたり緩めたり。そのうちその誰かは頬を撫でる。優しく、包み込むように。不快ではなくむしろ心地良い。
うっすら目を開けると文則と目が合った。頬に感じていた温もりは急速に遠ざかる。
「目覚めたか」
ここは私の自室だ。何だっけ?何で私は寝てて、文則がここにいるんだ?頭が重く靄がかかったようにはっきりとしない。
「何でいるの?」
そう聞くと、彼の眉間の皺が深く深く、それはもう深く刻まれた。
「この、愚か者め!」
その迫力に思わずひえっ、とか声が出てしまう。文則の頭に見える筈のない角がにょきにょきと生えるのを見た。
「一人で勝手に抜け出し、あまつあのような場所に入り込むとは考えなしも甚だしい」
そう言われて何があったのかを瞬時に思い出し、冷や汗が吹き出る。
「ご、ごめんなさい」
「謝って済む問題ではない。今回は寸での所で助かったものの、何かあってからでは取り返しもつかんぞ」
「……ごめんなさい」
「子供と思われたくなくば、己を厳に律し責任ある行動を心掛けよ」
「……はい。おっしゃる通りで。面目ないです」
「厳罰に処する」
ええぇぇぇ!私兵士じゃないんだけど!いやでも迷惑かけたのは確かだし!というかどんな処罰!?
頭が混乱して文則の言葉に処理が追いつかない。その結果、絶句してしまった私は文則にぎろりと睨みつけられてしまった。
当たり前だけど相当お怒りだ。こんなに怒られたのは久しぶりかもしれない。そしてこんな時の文則は本当にお仕置きするんだ。
「うう……甘んじてお受けします」
そう答えた矢先彼はふ、と微笑みを浮かべた。そのまま大きな手で頭をくしゃりと撫でられる。
「冗談だ。……だが、二度とあのような心臓が止まる思いはさせるな」
文則の辛そうに歪められた顔に胸が引き裂かれそうになる。
どれ程の心労を彼に掛けてしまっただろう。自分の軽率さにほとほと嫌気が差した。
「本当に、馬鹿でごめんなさい」
溢れる涙もそのままに彼に抱きつく。抱き締め返されながら、幼子のようにわんわんと泣いてしまった。