口を開けば子上殿、子上殿。話の中身的に言えば甘いものとは程遠いけれど、こうも多いと少し辟易してしまう。もうお腹いっぱいです、そんな気分になる。
そんな私に気づかない元姫は、相も変わらず司馬昭殿の愚痴をこぼす。彼女は知っているんだろうか。そうやって彼の事を口にしている時の顔がいつもより柔らかく、少し嬉しげなのを。
「大変そうだねぇ。ま、あんたが健勝そうで何より」
「なまえも。元気そうで安心した」
幼馴染みでも大人になるとなかなか会う事もままならない。まして元姫は嫁いでしまったのだから尚更だろう。
それにしても──それにしても、以前の元姫は、こんなに他人に興味を示す事などあまりなかったように思う。
頭が良くて、どこか冷めた目をしていた。私以外と話をしている所など、数える程しか見た事はなかった。
それが今やどうだ。子上殿に始まりその他もろもろ、次から次へと私の知らぬ名が飛び出す。
それ程までに、今彼女が身を置く環境が良い物なのだろう。すっかり馴染んじゃったのね。一抹の寂しさを覚えるが、喜ばしい事なのだと思い直す。
「この間、なまえのご両親に会った」
「え、そうなの?知らんかった」
「なまえはいつになったら嫁いでくれるのかと、嘆いてらしたわよ」
その言葉に思わず苦笑する。そんなもんは縁であるから、どうしようもないのに。
「まだ、だめなのね」
そんな私を見て元姫は溜息をつく。呆れた風ではなく、悲しそうに。
「ただいい人と巡り会えないだけだよ。それだけ」
彼女から目を逸らし、空を見上げる。あの日の空によく似ている。ふいに蘇る記憶に吐き気を覚えたが、それでも後悔は何一つない。
「なまえ……ごめんなさい」
しゅんとして謝る元姫も、きっとあの日の事を思い出しているのだろう。
眩しい日差し。暑い夏の日。
真っ青な空。幼い私と元姫。
『ずっと一緒にいようね。お嫁に行っても、子供ができても、お婆ちゃんになっても……』
約束。指切り。
ふいに元姫を呼ぶ知らない声。
踏み込んできた大人の男達。
血のついた刀。飛び交う怒号。
『どっちが王元姫だ』
振り向くと震える小さな体。
すがるような瞳。
私が守らなくちゃ。
元姫は私が守らなくちゃ。
『私、私です。私が王元姫』
あの後私は男達に連れて行かれたが、結局元姫ではない事にすぐに気づかれ、酷い暴行を受けたらしい。
らしいと言うのはその辺の記憶が曖昧で、断続的にしか覚えていないのだ。ただ、凄まじく痛かった事だけは今でも忘れられない。
救い出されたものの、しばらくは布団から出る事もできなかった私の元へ、元姫は毎日のように訪ねて来て泣きじゃくって謝った。
あんまり泣くものだから、あの時期の元姫は目が分からなくなる程瞼を腫らしていたっけ。
だから、約束した。
『ずっと一緒にいてね』
「本当は、私だったのに。あの日拐われるのは私だったのに」
元姫がそう呟く。違う、と私は頭を振る。そうじゃない。
「私が勝手にした事だよ。あんたが責任を感じる事なんかない」
先程までの青空が嘘のように、陰り灰色の雲に覆われていく。
視線を落としたままの元姫に目を奪われる。伏せられた長い睫毛、大きな瞳、小ぶりな桃色の唇。陶器のようなその肌はどんな触り心地なんだろう。
私がいくら望んでも、その全ては手に入らない。
だから、良かったのよ。あの忌々しい日が、あって良かったの。元姫が忘れる事なんて一生できないでしょう。
ずっとずっと、私を覚えてくれてればいい。馬鹿げた夢だと笑われてもかまわない。
「ねぇなまえ。今度私の邸へ来てみない?みんなも、招待して食事会でもしてみれば」
「遠慮しとくわ。ガラじゃないし」
「そんな事ない。……私は、なまえが立ち直れてないんじゃないかって、それが心配」
悲しげな瞳に胸が高鳴る。それでいいの、元姫。そうやって私を忘れないでいてね。それだけで、私は生きていけるのだから。
ふいに、元姫を呼ぶ声が遠くから聞こえる。能天気そうな男が大仰に手を振りながら馬から飛び降りている。
「子上殿……」
困惑と喜びが混在した表情で元姫はその男を見つめている。
どうしようもない絶望感がじわりじわりと胸に広がるが、それを悟られる訳にはいかない。
「さぁ、行って」
元姫の背中を押す。
少し戸惑って、それじゃまた、そう言い弾かれるように彼女は駆けていく。小さくなっていく姿。仲睦まじそうな二人の表情。
あんなに愚痴を零していたくせに。思わず笑ってしまう。でも、それだけ愛情があるんだろう。それはそれで、嬉しい事なのだけど。
胸の痛みを誤魔化すように空を見上げる。まだ完全に雲に覆われてはいない。隙間から青空が顔を覗かせている。
昔昔交わした約束なんか、反故にしちゃっていいのよ。信じてなんかないんだから。最初からずっと一緒なんて言わなければ良かった。元姫にも言って欲しくなかった。そうすれば私は一人でも平気だったのに。
「神様って不公平ね」
空に向かって呟いてみる。もちろん返事はないのだけれど。少しだけ、救われた気がした。