昨夜からちらほらと降り出した雪は、朝になって目覚める頃には辺り一面を白く染め上げた。
庭に埋められた名も知らぬ木々も雪をかぶり、重たそうに風に合わせてその枝を揺らしている。積もり過ぎた雪は重みに耐えられなくなり、時折音を立てて地面へと滑り落ちた。
「うう……寒い」
木で作られた簡素な椅子に腰掛け、なまえは両手を擦り合わせぶるりと震えた。その体は自室から持ってきた布団にすっぽりとくるまれている。
目が覚め布団から出ようとしたものの、あまりの寒さに布団が体から離れてくれなかったのだ、と彼女は説明した。そしてそのまま布団を引きずり、ここまでやってきたのだと言う。
それを聞いた時この部屋の主、于禁はひくりと片眉を引きつらせた。大声で怒鳴りつけたいのを必死にこらえ、なまえを部屋へと招き入れたのである。
今さら彼女に常識云々を説いた所で、自分の言葉など馬耳東風な事は長年の付き合いで分かってしまっている。無駄な体力の消耗は避け、見えぬふり、素知らぬふりをする、それがなまえとの付き合いを続ける秘訣なのだ。
「寒いのはみな同じだ」
于禁がさもありなんと返すと、なまえがそれは違うとばかりに首をゆっくりと振った。そんな彼女を于禁は読みかけの書簡から顔を上げ、ちらりと横目で見た後、ため息をついた。
「……言いたいことがあるのならば言え。それでは分からん」
「いいの、于禁に言ったってどうせ分かんないから」
彼女から発せられた言葉は馬鹿にしているふうでもなく、さも当然というように聞こえる。辛辣な言葉であってもそれに腹を立てる気が起こらない、とでもいうのだろうか。
ああ、そうなのかと素直に受け入れてしまう。そこがなまえの不思議な所ではあった。あくまで言葉に対して、ではあるが。
「寒いなー」
再び彼女はそう呟く。
于禁は今度はその言葉に応えず、書簡を読み続けた。なまえの方もそれ以上口を開くこともなく、無遠慮に投げ出されていた足を布団の中へと引き上げる。その姿はまるで雪の塊のようであった。
*
ガタリ、と風が窓を叩く音で于禁は意識を引き戻される。時間を忘れ書簡を読みふけってしまっていた。今はいったい何どきであろうか。
顔を上げると同時に床へと崩れ落ちてしまった雪の塊が目に入る。身動き一つせず、きれいに丸くなっているそれに本日何回目か分らないため息が洩れた。
なぜそうなるのだ、と彼は心の中で毒づく。普通は床に落ちた時点で目が覚めるだろう。椅子から立ち上がり、その塊へと近づく。
「なまえ」
呼んでみても返事どころか動く事すらしない。ただかすかに聞こえてくる規則正しい寝息だけが、彼女がこの状況下で熟睡している事を告げる。
「なまえ」
于禁が先程よりもわずかに声の音量を上げ名を呼ぶと、ううーん、と彼女は唸りもぞもぞと身をよじらせた。
「寝るなら自室へ戻れ。このような所で寝るものではない」
布団の隙間からのぞく顔が不快そうにしかめられた後、その目がうっすらと開かれる。
「……抱っこ」
寝起き特有のかすれた声でなまえはねだった。その様子はまるで年端もいかぬ幼児そのものだ。無論彼女は子供などではない。成人した立派な女である。
そんな彼女に于禁は驚くこともなく無表情で布団を剥ぎとる。と、同時になまえはあらん限りの金切り声をあげた。
「ぎぃやああああああああ! 寒い! ばか! ばか! ひどい! 死んじゃったらどうするの!」
冷たいであろう床に伏せ、ぎゃあぎゃあと喚き続ける彼女を無視して、于禁はその手の布団を丁寧に畳んでいく。
「返してー……私の布団さん返してよぉー」
その声は悲痛に満ち、今にも消えてしまいそうだ。
どうしてこうなのだ、と于禁は眉を顰める。どうしてこうも彼女は毎度訳の分からぬ言動をとるのだ。そしてその尻拭いがいつも自分にやってくることも彼は不服であった。
「于禁のばかー……もうだめだぁ……凍え死ぬー……」
そう言いながらなまえは目を閉じかけている。
冗談ではない、と于禁は思った。こんな所で寝られては本当に凍死されかねない。
「いい加減にしろ、なまえ」
言いながら彼は、彼女の腕を引き無理やり立ち上がらせる。
ああぁぁぁー、と切ない声をあげながらなまえは引き抜かれた野菜のようにその身を于禁に預けた。それからぱちりと目を開け
「抱っこ」
とはっきり言った。
于禁の頬がひくりと痙攣している。本当になぜこうなのだ。事あるごとにつきまとわれ、その言動に振り回される。冷静でなどいさせてはくれない。
わざとらしく瞬きを繰り返すなまえを見ながら于禁は泣き出したい気持ちに襲われた。