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灯火
辺りはいつの間にか暗闇に溶けてしまっている。しん、と静まり返った廊下で高欄に腰掛け、足をぶらぶらと遊ばせる。

時折雲の隙間から月が顔を覗かせるが、薄い膜を張られたようにぼんやりと頼りない光だ。

布団へ入ったはいいが、目が冴えなかなか眠りに就くことができなかった。眠ろうと思えば思うほど、とりとめのない感情が頭を強く支配していく。

思わず叫び出しそうになるのをようやっと堪えて、外へと飛び出した。人気の消えた廊下をぐるりと歩いているうちに少しばかり気持ちが楽になったものの、眠気は一向にやってきてくれない。

しかしあまり歩き回って音を立てても迷惑千万である。どこか良い所はないものかと思案している時にふと、この高欄が目に入りここぞとばかりに腰を下ろした。

目を凝らしても辺りの様子はぼんやりとしか分からない。それでも今はその景色がたまらなく心地良い。

黒に溶けてしまった景色はまるで私の心のようだ。どうしようもなく暗闇に捕らわれて抜け出せない。もがけばもがくほど深みへと沈んでいく。

どうすれば、良かったのだろう。今さら考えても仕方ないことなのにああしていればこうしていればと何度も同じ事を繰り返す。時が巻戻れば良いのに。

背後から突如としてぎしりと床が軋む音が鳴り、はっと意識を引き戻される。

「何をしている」
幾らか顰められてはいるものの、その声は普段と変わらず厳格さを纏わせている。

「于禁将軍ですか」
これはまた厄介な方と遭遇したものだ。正面から会ったのではないのがせめてもの救いか。この方の顔を真っ暗闇の中で突然見た日には卒倒する自信がある。

「このような夜半に出歩くとは、間諜の嫌疑を掛けられても致し方ないぞ」
「申し訳ございません」

今はそんなお小言を聞ける気分ではない。于禁将軍にあれやこれや言われるくらいなら、眠れずとも布団の中にいる方が幾らかましだ。

「すぐに戻ります」
高欄から飛び降り、身を翻す。于禁将軍は仁王立ちで腕を組み、じっと私へと視線を向けている。彼の前で一旦足を止め、一礼をしようと頭を下げた。

「先の戦働き、見事であった」
ふいに頭上から降った言葉に、どきりとする。

于禁将軍は将軍だし、まぁ他にも色々と話の種が尽きない方ではあるので末端の者まで知っているが、その方が一介の軍侯である私をご存じとは。

「有り難きお言葉にございます」
もしその言葉が別の戦であったなら、素直に受け取り喜び舞い上がっていたのだろう。されど、と続ける。

「されど私は上官を斬りました」

親を亡くし頼れる者などおらず、今日明日食べる物もなく、盗みや強奪を生業としていた私を引き揚げてくれたのは、他でもない上官だった。

武を習わせ、最低限の学を学ばせてくれたのも、優しさを、愛を教えてくれたのもすべてすべて彼だった。私のすべてを作り上げた彼を斬り捨てたのだ。この手で。

「聞き及んでいる。裏切り者であったと」
「……」

いつしか彼は変わってしまった。気づいてしまったのだ。優しさで全ての人は救えない。愛があってもそれで腹は膨れない。武も学も戦の為のもので、生命を奪うものでしかないのだと。

壊れてしまった彼を救う言葉など何一つなかった。私の言葉など何一つ届きはしなかった。この国を裏切り敵国へと彼の地を明け渡そうとした彼を、どう止めれば良かったのか。答えはいまだ見つからぬままだ。

「お前が斬らねば要所は敵の手に落ち、戦況は一層厳しさを増した事だろう」
「そう、でございますね……」

皆が私を褒めた。良くやった、と。その度に抜けぬ棘がじりじりと心を痛めつける。称賛される程に、彼を手にかけた事が呼び起こされるのだ。たった一人の愛しい人を殺してまで、この国を守る価値はあったのだろうか。

「愛していたのか」

その言葉にどきりと心臓が跳ねた。なぜ、と思わず口から漏れる。その事は誰も知らない筈だ。上官だった彼すらも。ただ一方的に想いを寄せ、それを告げる事すら出来なかった。誰も、知り得ないのだ。

「そのような顔では気づかぬ方が難しい」
淡々と言い放つ将軍に唖然としてしまう。そのような細やかな所にまで気を配る方だなんて、思いもよらなかった。

「私には、分かりかねるのです。彼を斬った事は正しかったのでしょうか?確かに戦には勝ちました。ですが私は──私はまた一人になってしまいました」

我ながらなんと甘い事を抜かしているのかと思う。敵国と密通しようとした者を許す訳にはいかない。ましてそれが急を要するものであるなら尚更の事だ。

「このような戯言、将軍に申し上げる事ではございませんね。どうぞ、お忘れください」
「軍律を守らぬ者を厳罰に処するのは一国の将として当然の事だ。場合によっては処断もやむなしだ」

噂通りの鬼将軍ぶりだ。この方に血は通っているのかしら?だが、これ程までに冷血になれねば、軍という物は率いる事はできないのだろう。私にはできそうもないな、と思う。したくもないけれど。

「だが」
言葉を続ける于禁将軍の前髪が、風でさらりと揺れる。

「お前は一人にはならん。今日付で私の副官に任命する。責務を全うし、さらに尽力せよ」

眉一つ動かさず目の前の人はそう告げた。どういう事だ?問うよりも先に鬼と呼ばれる将軍は踵を返し、去っていく。

「早々に部屋へ戻れ」
そう言い残して。まったく訳が分からず、その場から動けない。買われる程の武が私にあるとは思えない。ならば、なぜ?考えても考えても分からなかった。


    *


後日、于禁将軍の元であの夜の事を訪ねてみる。

「何故私だったのですか?他にも優秀な方は沢山いらっしゃいましょう」

すると珍しく彼は言い淀む。眉間に皺が深く刻まれている。やがて溜息をつき、こう答えた。

「……あのままではお前が消えていきそうに見えたのだ。看過できなかった」
これ以上は言わん、そう付け足して。

将軍の元に来て一つだけ分かった事がある。厳格で融通が効かない。けれどこの方は鬼なんかではなかった。血も涙も感情もある、優しいお方だ。

誰よりもこの国を愛しているからこそ、軍規に重きを置き、遵守できぬ者を取り締まられているのだ。

すべては過ぎ去ってしまった事だ。嘆いたとしてなにも変える事などできはしない。

ならば、せめてこの命が尽きるまではこの方に報いよう。私を暗闇からすくい上げ、一人にはならないと仰ってくださったこの方に。

微笑んだ私を見る于禁将軍の顔は、いつもより少しだけ柔らかく思えた。
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