寄り道しようか


階段をまるで転がり落ちるように駆け降り、昇降口まで走った。化学の頑固教師に捕まって問題集を何ページか進める羽目になってしまったけど、果して彼は待っていてくれるだろうか。付き合って数日。流れで一緒に帰る事にしたけど、一度目から先生の妨害。先が思いやられる。ようやく自クラスの靴箱にたどり着くとそこには人影は無く、彼の靴箱には上履きがきっちり揃って入っていた。私は仕方ないなと思う反面とても悲しくて悲しくて、化学の教師を恨むのだった。

「補習かい?」

ローファーを履いていると頭上から心地好い声が響き、咄嗟に顔を上げた。逆光だったが、私にはそれがザエルアポロだとちゃんと分かった。

「ごめん…待っててくれたんだ…」

「約束したろ。さぁ、帰ろうか」

伸ばされたザエルアポロの手を掴み、私は昇降口を後にした。

「物質量とか化学式とかほんと…何度やってもわかんなくて」

下校中、先程まで開いていた問題集を鞄から取り出し、赤ペンでボロボロになったそれをザエルアポロに見せた。

「簡単な事だよ。一つ一つを覚えていけば、後は単純な計算が残るだけだ」

ザエルアポロの細く綺麗な指が赤いラインをなぞって、方程式を書く。

「ザエルアポロは簡単かもしれないけどさ…私は文系だから」

「僕は現国の方が理解出来ないよ。正確な答の出ない問題なんて」

「それが良いんだよ。問題読むのも楽しいし」

「君らしいな」

ザエルアポロは胸元から三色ボールペンを取り出して歩きながら私の問題集に簡単な解説を書き込んでいた。こけるよ、とか、危ないよ、とか言おうか迷ったが、危なげなく段差を避ける長い足を見てそれが杞憂だったと知る。

「ここが分かれば応用にも役立つ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

知的な微笑みを浮かべるザエルアポロに手渡された問題集を鞄にしまう。その前にページをすこしめくって見たら先生とは比べものにならないくらい綺麗な字で途中式が書き込まれていた。これはわかりやすい。
ふう、とザエルアポロが髪をかきあげた。私にはもう彼が何をしても頭が良さそうに見える。眼鏡似合うなぁ。髪の毛柔らかそうだなぁ。私ばかりずっと脳内でそう考えていたから、私達は無言のままに住宅街を歩いている。会話のネタが尽きてしまった、という風で少し気まずい。私が必死にネタを探していると、意外な事にザエルアポロが口を開いた。

「浅葱」

「えっ、え?」

「手繋ごう」

「え、あ、は、はい」

なぜ敬語になったし。ザエルアポロは私の手を掴み、やんわりと握った。冬なのに緊張で手汗かきそう。存外温かいザエルアポロの体温を感じていると、ザエルアポロがふっと笑った。

「冷たいんだね。君の手」

「冷え症…だから」

「そうか」

またしても静寂。閑静な住宅街に私の鞄についたキーホルダーの音だけがいやに響いた。

「僕」

「ん?」

「喉が、渇いたな」

「ザエルアポロ、緊張してる?」

「さあ、どうだろうね」

ザエルアポロの白い眼鏡、そのテンプルが広いせいで横からでは彼の表情は伺えなかったが、彼の頬が赤くなっているのは分かった。夕日のせいかもしれない。それでもこんな完璧な人も照れる事はあるのだと思い直し、「ファミレス行こっか」と初な彼を誘った。私も喉がからからだ。

101205