死に人に愛


あの、クシャナーダとかいう得体の知れない化け物から命からがら(いや、私は既に死んでいるのでその表現は違っているかもしれないが)逃げ延び、第一階層から墜ちた私は、睡蓮の花が浮かぶ広い海のような世界に迷い込んだ。いつクシャナーダが来るかも分からないから、一つの睡蓮の花弁の中でひっそりと身を潜める。不思議とお腹が空く事も喉が渇く事も無かったが、ひどく体が怠かった。

「私…地獄に来たんだ…」

私は生前、何の罪を犯したか覚えていない。地獄で償うのだと言われたものの、何を償えば良いのか分からないのだ。こんな事が永遠に続く。そう考えただけで私の心は折れそうだった。ふと、私の上から影が落ちた。

「気分はどうだ?」

驚いて見上げるとそこには赤がかった紫色の髪をした男が立っていた。眼は緑、片目は髪に隠れていて、容姿は怖い程に整っている。穏やかな声色は、地獄に墜ちて初めて聞いたかもしれない。

「えっと…ごめん、誰」

「私は朱蓮。ここもじきにクシャナーダが来る」

朱蓮と名乗る男は身軽に跳び、私の前に着地した。外套が翻る。

「私と共に来れば、身の安全は保障しよう」

「はあ…どうも」

「来い」

高圧的な態度が気になったが、背に腹は代えられない。私は彼の後に続いた。

二人並んで睡蓮の浮かぶ小島から海を見下ろす。この海に潜るらしい。落ちたらどうなるの、とか息は苦しくないの、とか聞きたい事は沢山あったが、この人の方が地獄歴(というのだろうか)が長いのは確実らしい。
それにしても、妙に親切だ。普通見ず知らずの人間を助けるか?疑心暗鬼が広がる。あまりに凝視したため朱蓮は苦笑して「どうした?」と聞いてきた。

「いや…うーん…」

「なぜ私が君にこうも構うのか気になっている、か?」

「え…はい。正直」

朱蓮はふむ、と考えてから私を指差した。白く女性的な程綺麗な手。甲は骨のようにすべらかで、細い。
朱蓮が長い睫をはためかせ、ゆっくりまばたく。
私はじっと次の言葉を待った。

「君を地獄に堕としたのが私だから、といえば納得するかな?」

そして私は何かを聞き返す余裕も無く、絶句する。

「君は本来なら整として流魂街に送られるはずだった。が、私が少し細工をして、クシャナーダを君の近くにおびき寄せたんだ。クシャナーダは知能はあまり高くなく、見境が無いといえば分かるかい?」

「なにそれ…私、地獄なんか嫌!帰してよ!」

「もう鎖が生えてる。手遅れだよ」

朱蓮の指先が私の胸元に伸びる。そこには私の裂けた皮膚の中から生える赤い鎖が垂れていた。朱蓮の首の枷と同じ物だろうか。朱蓮は私の鎖の先を地中からかたぐりよせ、ジャリ…と金属音をたてて手に掴んだ。

「放して!」

「嫌だ。漸く手に入れた浅葱なのだから」

「私の名前…」

「好きなら、知ってて当然だよ」

寒気が止まらない。私は見ず知らずの男に一方的に好かれて、地獄にまで落とされたっていうの?朱蓮の甘いマスクにも声色にももう騙されない。
私はこの男を振り切って逃げるため足を動かそうとした。踵を返す、が、朱蓮は胸の鎖をしっかりと掴んでいて放さない。私は犬にでもなったのか。悔しい。悲しくて胸が痛い。
抵抗を示す私に朱蓮は眉間に皴を寄せ、一気に鎖を引っ張った。肉がえぐられるような、激痛が胸元に走る。

「ああっ!」

「私もあまり手酷くするのは趣味じゃないんだ。大人しく来い」

「嫌…」

朱蓮がまた強く鎖を引く。

「地獄に堕ちたからには、非力な君は護られる必要がある。飢えた咎人から、クシャナーダから、私が君を護ろう」

「貴方が変な事しなかったら私はそもそもここには居なかったの!」

「…君も、そんなに早く腐りたくはないだろう?…ああ、浅葱があんまり喚くから気付いたようだ」

ハッとして後ろを振り返るとそこには二体のクシャナーダが私達目掛けて歩いて来ていた。大きな手を、伸ばそうとしている。

「飛べ!」

朱蓮が私の腕を掴み、私を引きずるように海へ身を投げた。今度は振り切る間もなく、私は青い海の中に引きずり込まれる。
白い泡のシャワーを抜ければそこには深い青色の景色が広がる。隣の朱蓮を盗み見ると、朱蓮は口を開き、何事か喋ってから私の体を抱き寄せた。限りなく不愉快だったが水中では思うように抵抗も出来ず、諦めた私は口から空気を吐き出した。出来るならばこのまま溺死してしまいたい。逃げ場はどこにもない。死ぬ事すら、出来ないらしい。

(君はもう私に頼らければ、この地獄では永らえられない。永遠に喰われる苦痛と憎い男に頼る苦痛、さて君はどちらを選ぶかな)

(どちらにせよ、君のその屈辱に歪む顔すらも私の物だという事に変わりは無い)



101210